2004/11/15

人間の安全保障と人権

小西さん、早川さん、久木田さんほか国連フォーラムのみなさま。国連人間の安全保障ユニットの田瀬です。
11月8日月曜日に緒方貞子議長の下で「人間の安全保障諮問委員会」が開催されたため、その準備とフォローアップにかかりきりでこれまで投稿する余裕がありませんでした。すみません。せっかく人間の安全保障が話題になっているので投稿してみます。以下、まったく私の私見ではありますが、「人間の安全保障委員会」の経験から、なるべく簡単に、誤解をおそれず「人間の安全保障」と「人権」、それから「人間開発」の違いについて書いてみます。3分で読めない量になってしまったらごめんなさい。ご議論お願いします。
●「人間の安全保障」は言ってみれば方法論。
人権は個々人が人間である限り生まれついて持っている、その存在に内在する「特質」のようなものと理解しています。国連の文脈では国家があってはじめて人権があるといった議論が多いような気がしますが、もともと人権概念は、国家があろうがなかろうが、人間である限りはあるんだという前提に立っていますよね。
「人間の安全保障」が人間に内在する「特質」であるという人はいないでしょう。そもそも「保障」はサ変動名詞ですし、実際これは「安全を保障するためのアプローチ」であってそれ以外の何者でもありません。以前、代表部の北岡大使とお話ししているときに、大使が「それってデマンドサイドの安全保障ってことかな」と仰ったことがあるのですが、本質を見抜いた観察だと思いました。
人間開発もその意味ではアプローチの一つといえるでしょうね。ただ、センの言うように、人間開発は非常に上向き(upbeat)な概念で、人間の可能性をフルにひき出すことをめざしています。一方、人間の安全保障は急速な状況の悪化(sudden downturn)が起きたときに、どうやって社会を持たせていくかという側面に注目した方法論かと思います。
●「人間の安全保障」の対象は個人よりももう少し大きな単位
そういうわけですから、人権は基本的には個々人をベースにした概念かと理解しています。最近では「発展の権利」など集団的な権利も認められてきていますが(日本政府は反対)、やはり出発点を考えると、人権は一人ひとりの人間に内在するものだと思います。
人間の安全保障の方でも、日本政府は2000年頃までは「一人ひとりの視点からみた安全保障」というような言い方をしていた時期があり、このころは人権との概念との混乱がありました。しかし、緒方議長の下で人間の安全保障委員会の審議が進むにつれ、こちらのほうはもう少し大きな単位、すなわち「人々(people)」を対象にした方法論なのではないかということになってきました。特に、委員会はコミュニティの能力が人間の安全に及ぼす影響に注目したといえます。最終報告書では明確に「コミュニティレベルの保護と能力強化」というアプローチを打ち出しています。人間開発はどうなのでしょうか。専門家の方いらっしゃいますか?
●「人間の安全保障」のキーワードは相互連関(inter-linkage)
人権の世界では、生存権、参政権、財産権、表現の自由など、人間が持つ権利の特質をその場合場合に分けて考えますよね。そしてそれぞれが法規範になっているわけです。これらの権利の間の相互連関とか、すべての権利を統合して実現するとかという言い方はあんまりしないと思います。
一方、人間の安全保障の方はまさにそれがテーマです。人間の周りにはいろんな問題がありますが、実はそれらがたがいに結びついていて、結果的に人々の安全を左右していると考えるわけです。水、保健、教育、食糧などの条件は互いに密接に影響を及ぼしますし、紛争後の開発への着手の難しさとか、貧困と紛争の間の因果関係といったことがこのアプローチの主題です。「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」の両方を実現する、という言い方は、ここにつながるものと認識しています。
相互連関自体は人間開発においても相当程度勘案されていると思います。ただ、人間開発では「恐怖からの自由」にはあまり焦点を当てて来ていないと理解しているのですが、このあたり、よく知っている方いらっしゃいますか。
●「人間の安全保障」は国際機構論、組織論ともなり得る
実のところ、「人権」や「人間開発」と「人間の安全保障」の決定的な違いはこれだと思います。人間の安全保障は、人々の周りの問題が結びついているという理解から、ひるがえって国際社会の方を向き、そのあり方もこれらの問題を結びつけて考え、行動できるようなものでなければならないという問題意識を提起します。つまり、人間の安全保障は、人間を中心とした考え方ではあるのですが、その最終目的は国際社会のあり方を変えていこうという組織論、国際機構論でもあるのです。人権や人間開発は、それ自体は組織論ではありませんよね。
これは、特に緒方議長が難民高等弁務官時代に、難民条約で定められているUNHCRのマンデートの中で、IDPなど難民以外の人を救うのが非常に難しかったという経験をされたことから来ている部分が大きいと思います。また、いわゆるギャップの問題(紛争から開発への以降が円滑に行なわれない)も、緒方議長が経験された大きな試練であったと思います。セン議長の議論はあくまでも、どこまで行っても人間の議論なのですが、緒方議長はいつのまにか人間を守る側の国際社会と対峙している、という感じでした。この二つの知性が融合したことに、委員会の議論の面白さがありました。
現在の「国連人間の安全保障基金」のガイドラインでは、こうした考え方を受けて、「複数機関が複数セクターをその相互連関を含めて扱う統合アプローチ」というのが事業採択の一つの基準となっています。これは言ってみれば、資金の使い方に要件を課すことで、国際機関の振る舞いを変え、その活動をより一貫したものとしようという試みです。これと「人権アプローチ」を比べれば、その意味するところの違いは非常に明確だと思いますが、いかがでしょうか。
本日はこの辺にいたします。長文失礼いたしました。

9 Comments:

At 11:44 AM, Blogger Hidenori Nakamura said...

国連人間の安全保障ユニット・田瀬さん、NY国連フォーラムの皆さんへ

在バングラデシュ日本大使館の紀谷です。初めて投稿させていただきます。

「人間の安全保障(human security)」を日本としてどのように捉え、実践し、そして広く世界に訴えていくかという問題は、とても大事だと思います。

バングラデシュでは、国別援助計画の改定作業をはじめており、骨子案の中
で、人間の安全保障を柱の一つとして取り上げることの是非につき議論をして
いるところです。先日のODA総合戦略会議では、それまでの議論を踏まえ、
「人間の安全保障」と「社会開発」を両論併記の形で提示し、要検討としてい
ます。
「3.援助方針
(2)重点目標・セクター
(イ)重点目標:要検討。例:経済成長、人間の安全保障/社会開発、ガバナ
ンス」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/kaikaku/kondankai/senryaku/18_shiryo/shiryo_3.html

バングラデシュは、政府の能力が比較的弱く、その強化は喫緊の課題です。し
かし、それを補う形でのコミュニティやNGOの能力強化、更には政府とコミュ
ニティやNGOとの協力・共生関係の構築というアプローチもあり、双方とも追
求していくことが大事なのではないかと感じております。

バングラデシュは、チッタゴン丘陵地帯の少数民族問題を除き特段の紛争もな
く、人間の安全保障といってもなかなかアピールできないように当初は感じて
おりましたが、まさに政府が弱い中での「コミュニティづくり」という観点か
ら、結構押していけるのではないかと思い直しています。

なお、全く別の観点ですが、当地では、human securityということばが、法と秩序の維持、人権擁護、司法改革の文脈でよく使われています。人間の安全保
障委員会での定義(protection and empowerment)は、全くの少数派です。このような中で、どのように人間の安全保障委員会流の「人間の安全保障」の定義を広めていくべきか、思案中です。

英国のNGOに、Action Aidというところがあり、先日当館に会いに来ました。
話を聞くと、結構日本の問題意識と共通するところがあり、共同戦線を張って
くれそうでした。今のところ、なかなか手が回らないのが実情ですが、仲間を
見つけて盛り上げていく必要を感じております。

以上、ニューヨークとはまったく別のフロントからの現状報告ということで、
参考になれば幸いです。

 
At 3:37 PM, Blogger Hidenori Nakamura said...

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At 9:05 PM, Blogger Team UN Forum said...

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At 1:47 AM, Blogger Team UN Forum said...

久木田さん、田瀬さん、国連フォーラムのみなさんへ

コロンビア大学SIPAの中村秀規です。少し前に行われていた人間の安全保障と人権についての議論についてコメントさせていただきます。

1.人間の安全保障という概念の特徴は、国家(や国家集団)の安全保障に対置するものとして、人間を安全保障の対象でもあり、そうした仕組みが存在する理由でもあるとしているところに(も)あるのではないでしょうか。そうすることで国家の狭間に漏れ落ちる難民や、さらには人間の安全を保障しない国家/状況のもとにある人びとに対して国際社会が介入/救援することを正当化しているように思われます。ドメスティック・バイオレンスに対して外部から介入することと類似的だと思います。介入すること/しないことの正当性は常に議論になるわけですが、国家主権を絶対としない方向を模索し始めていることの意味は大きいと感じます。さらに、兵器や軍隊が関わることばかりが「安全保障」の話ではなく、長期化する難民問題や国内避難民など紛争と開発/環境問題との接点に光を当てていることも人間の安全保障概念の効用ではないかと感じます。人権はそもそも人間についての概念ですが、開発について人間中心の開発が言われてきたのに対応して、安全保障についても人間中心の安全保障が言われるようになった、というふうに理解できるのではないかと思っていました。

2.人権、および人権に基づく開発アプローチについては、以下の久木田さんによるセンの説明の紹介にあるように、権利を担保する仕組みとしての国家(など)がないと有効性を持たないわけですが、政治的権利のみならず経済的/社会的権利に拡張していくときに、権利保障の義務を負うのは国家だと言ってしまうと、その義務/負担を負うのは実は自分たちであるという認識が遠くならないでしょうか。また逆にそうした認識を正確に持ったとして、(世界規模で)経済的/社会的権利が満たされていないのは「人権が侵害されている」状況になり、それを放置しているのは国家の構成員たる自分たちの罪責であることになりますが、それは非常に強い主張ではないでしょうか。私は私的所有権を認め、また貢献に応ずる取得/分配を認めつつ、貢献とは無関係な、ただ人間であるということに基づく取得/分配もあってよいという立場に立っており、便宜上DCフォーラムで援助の理由を考える際に義務としての贈与という言葉を使ったこともありますが、それはあくまでさまざまの選択肢から選ぶことのできる相対的な制度/ルール/政策としてであって、開発が絶対的な罪責感に基づいて行われるのはおかしいと思っています。また、侵害されているにも関わらず個々人に罪責感を呼び起こさない人権があるとしたら、それは人権という言葉の意味/実質を剥奪するものではないかと思います。

He stresses that all three concepts are complementary to each other. For example, Sen indicates that human development is an "upbeat" progress orientation, while human security will ensure that "downside risks" of
development are taken care. While human security tries to ensure that people are protected from threats and empowered to be able to cope with those threats, human rights demands "duty-bearers" such as the state will ensure human security and human development are achieved.


中村秀規

 
At 1:53 AM, Blogger Team UN Forum said...

南さん、中村さん、田瀬さん、皆さん、ユニセフの久木田です。

私も、人間の安全保障の概念は大変重要だと考えています。息の長い議論をとことんできればいいですね。

まずは、「人間の安全保障」、「人間開発」、「人権を基盤としたアプローチ」の三つの主要な概念を整理しその関係を明確にしていくことが、それぞれの概念が包含する意味を明確にし、人間の安全保障の主流化にも欠かせないと考えています。それぞれがどのくらい使える概念なのかのテストにもなるでしょう。

その中でも重要なのは国家や個人などとの関連においてそれぞれの概念の役割を検討していくことだと考えます。この三つの概念にに共通しているのは、国家の枠組みでは見えなかったり、押しつぶされてしまっていた問題を「人間中心」の視点から見直していくということだと思います。その意味で、中村さんの「開発について人間中心の開発が言われてきたのに対応して、安全保障についても人間中心の安全保障が言われるようになった」、という視点は大変わかりやすいので賛成です。南さんとお話したときに、人権の傘のもとに人間の安全保障と人間開発を並べる絵を描いてみたのですが、概念図を描いてみるのも議論の助けになるかもしれませんね。

さて、中村さんからコメントをいただいた、人権アプローチにおける"duty-bearer"についてですが、私も実は中村さんと近い考え方をしているのではないかと思っています。ひとつ説明が必要なのは、「While human security tries to ensure that people are protected from threats and empowered to be able to cope with those threats, human rights demand duty-bearers" such as the state will ensure human security and human development are achieved.」という私の先の発言では、権利を確保する責任は「たとえば国家」と言いましたが、地方政府やコミュニティー、親など様々なDuty-bearerがあってそれぞれが人々の権利を守らなければならない、というのが人権を基盤としたアプローチの議論です。

実は私も1995年頃からRights-based Approachがユニセフの中に入ってきたときに、このDuty-Bearerという概念がよくわかりませんでした。これは、国連人権宣言やCEDAW、子どもの権利条約などが国際社会の今のコンセンサスとして草案され、各国が署名し、Human Rights Instrumentsとして効力を発するようになっても、それをもって子どもの親にDuty-bearerとしての責務を問うというのは非常に不自然に思えたからです。少なくとも問われた親は何を言われているのかよくわからないでしょうし、中にはそんなことを他人から言われたくないという反応をする人も多いのではないかと思います。分配公正Distributive Justiceを研究していた頃には、正義感や公正感というのは、人々の心の中にあるもので、法律にそう書いてあるからというものではないと理解していました。ましてや国家がそれを個人に説明もなく押し付けるのは問題でしょう。これを私はリーガル・アプローチと呼んでいます。

以前の投稿でも書いたように、人間にはかなり普遍的にNatural Valueのようなものがあるのではないかと私は思っています。それは、子どもの成長を誰もが喜ぶようなことであり、人を殺してはいけないと誰もが考えるようなことだと思います。(それが個の保存と種の保存と言う生物としての人間の染色体に組み込まれたプログラムでもあるかもしれないのですが)それが権利の原初形態ではないでしょうか。そこから議論を積み重ねていったのが人権という概念だと思います。ただ、それがかなり普遍的だとしても、国家などがそれを外から強制することは、他人の権利を尊重し自分にもそれがあるのだという個人の「内発的」な動機付けを「外発的」な動機付けに変えてしまい。それを守ろうとする人々の心をつぶすことになるのではないでしょうか。従って、本当に権利を基盤としたアプローチを行うためには、トップ・ダウンのリーガル・アプローチではなく、もっと人々の自然の価値観に基づいた議論を広め、コンセンサスを形成していく、ボトムアップのアプローチが必要であり、かつ効果的であると思います。私の開発や権利に対する基本姿勢はそこにあります。

法哲学の巨人ジョン・ロールズが正義論などで問うたのも、条約や法令のテクニカリティーではなく、この正義の原初形態だったと考えています。人間の心の奥底にある公正感の原則として「貢献に応じた分配(取得)」、「平等な分配」、「ニーズに応じた分配」があるとしているのも当然のことだと思います。「がんばって働いたらたくさんもらう」、「みんな友達なんだから平等に分ければいい」、「困っている人が先にもらうべきだ」、と考えるのは人間としてごく自然のことです。それは、アフリカや南アジア、日本やアメリカに暮らしてみてもほぼ疑いはありません。そこから、議論していって、現在の世界の貧富の格差、能力獲得での不平等、保護の欠落を、正義がなされていないと人々が考え行動すれば、世界はもっとよくなっていくと思います。

今日はこの辺で、

久木田

 
At 8:49 AM, Blogger Team UN Forum said...

こんにちは。UNDPカンボジアの小西です。NYCから戻りました。
皆さんの間でこの議論が進んで大変うれしく思います。

私も他の類似概念との整理と理論づけが重要だと思います。しばしば日本では、「自助努力」とかのフレーズがありますが、理論的な概念提示がないと国際的な場では受け入れづらく、またそれらをメインストリーム化していくことはより困難だと思います。

久木田さん:「権利を確保する責任は「たとえば国家」と言いましたが、地方政府やコミュニティー、親など様々なDuty-bearerがあってそれぞれが人々の権利を守らなければならない、というのが人権を基盤としたアプローチの議論です。」に関しては、親についてはよく分かりませんが、この議論は人間の安全保障でも安全を保障するという意味では、地方政府やコミュニティー、国家はduty-bearerとして考えられるのではないでしょうか。なので、人間の安全保障の具体化として、コミュニティの能力強化というのも重要かもしれませんが、生活の安全を保障するという意味では、コミュニティに限らず地方政府や国家も入ってくるし、サステイナビリティの観点からは、地方政府や国家とのリンケージがより重要になってくると思います。私自身はUNDPにいるということもあるかもしれませんが、ガバナンスがよくなっていかないことには、生活の安全が脅かされたり、紛争の種が残るのではないかと思いますし、特に地方レベルでは地方政府がサービスデリバリーがきちんとできるようになることや生活のアクセスが確保されていくこと、地方の開発でも市民の声が届く仕組みづくりが、そうした人間の安全保障につながるのではないかと思います。

 
At 9:11 PM, Blogger Team UN Forum said...

NYUNフォーラムの皆様、

はじめまして、外務省国際社会協力部政策課で人間の安全保障基金を担当している山田と申します。OCHAの田瀬さんのお誘いで本メールグループに参加させて頂きました。宜しく御願いします。

小西さんがお書きになった下記メールを拝見して人間の安全保障について思うところを述べさせて頂きます。人間の安全保障の概念の原点にあるのは、紛争・貧困・経済の急変等により国家による庇護を受けられなくなった人々の存在であり、国家のガバナンスが及ばないからこそ、人間の安全保障の取り組みは、一義的には国際機関や市民社会といった非政府機関の関与を得て行っていくものと理解して参りました(国際機関を通じた支援を行う「人間の安全保障基金」や市民社会を通じた支援を行う「草の根・人間の安全保障無償資金協力」もこうした考えを反映した取り組みであると理解しています)。そして、人々が出来るだけ直接的に支援の裨益を受けるために、コミュニティが一義的に支援の対象となるものと考えております。

ただ、コミュニティを対象とした支援も、プロジェクトが実施される数年間は目に見える具体的成果が挙げられますが、プロジェクトが終了し、5~6年といったより長いスパンでも同様の成果が上げられるかどうか疑問です。つまり、小西さんが指摘されているように、一義的にはコミュニティの保護と能力強化に焦点を当てつつも、地方政府や中央政府のガバナンス強化も視野に入れていかないと、人間の安全保障の視点から行う支援は継続性を保てなくなるのではないかと感じております。

多数のプロジェクトの審査に携わる小生の元にも、フィールドから「ガバナンス強化支援」に焦点を当てたプロジェクトが要請されてくることが時々あります。HS基金の支援対象のプライオリティ付けからそうした要請は基本的にお断りしているのですが、こうしたプロジェクトを同基金で支援すべきかどうかの是非はともかく、人間の安全保障の視点から支援を行うにあたってガバナンス強化をどのように視野に入れていくかが今後の課題の一つではないかと考えます。

外務省大臣官房国際社会協力部政策課
山田 潤

 
At 11:29 AM, Blogger Team UN Forum said...

国連フォーラムの皆さん、

コロンビア大学SIPAの中村です。久木田さん、rights-based approachに関するフィードバックをありがとうございます。ボトムアップ型で内発的な権利(/義務)概念の生成と、正義の原初形態に基づくコンセンサスづくりとが、それぞれ可能かつ必要ではないかとの考え方が、興味深いと感じました。非西洋社会にとっては輸入された概念や言葉が広く共通言語として使われている中で、こうした概念ほぐしには時間がかかるとは思いますが、その時間はまさにかけるべきものではないかとも思います。

ただ、正義論については政治的リベラリズム(善に関する多元性の容認)に示されるように正義がただ一つ存在するとは考えられておらず、理性を尽くした各人による討議を前提にしていると思いますが、人権についてはそうした相対的な視点が弱いように感じています。これには人権が概念であると同時にその拡張/保障が社会運動であることの影響もあると思います。いずれにしても善の貫徹は悪(または異なる善)の排除でもあるという認識は必要ではないかと考えます。

rights-based approachのポイントが、責務を負う自律的な社会システム(たとえば国家)を想定し、それが人間の安全保障や人間開発を実現するという仕組みの説明にあるとすると、社会契約または社会保障をどのように捉え、それをどのように制度的に構築するか、という議論と同型に見えますが、このように人権が社会契約、社会保障の制度論に含まれると考えれば、相対性は比較的見て取り易いのかもしれません。人権を人間の尊厳と捉えて擁護することはとても自然に思えますが、一方で多様にありえる社会制度を構築する上で、「絶対的な」善または正義として人権の強制が行われれば、それはまさに自由にもとる事態だと思います。

久木田さんも書いていらっしゃるような「何を自然な価値観とするか」というようなことも含めて、各個人/各文化による自己省察と相互の言語コミュニケーションが必要だと感じます。これは開発という介入をする側の反省から出てきた参加型開発にも通じる考え方のようにも思います。

中村秀規

 
At 11:31 AM, Blogger Team UN Forum said...

中村さん、小西さん、久木田さん、山田さん、フォーラムのみなさま。
田瀬@人間の安全保障ユニットより。

本件に関する議論が進んでいてたいへん嬉しく感じます。私の所見はほぼみなさんの意見と軌を一にするものと思いますが、私なりの書き方で整理してみたいと思います。

(1)人間の安全保障と国家の関係については中村さんが11月23日付の投稿でとてもうまく言われたと思います。すなわち、人間の安全保障は、「国家の安全保障に対して人間を安全保障の対象とすることによって、国家の狭間に漏れ落ちる難民や、さらには人間の安全を保障しない国家/状況のもとにある人びとに対して国際社会が介入/救援することを正当化する」という方法論なのだと思います。さらに簡単に言うと、国の力が足りなくて人々が困っているときは国際社会が助けてあげるべきだ、ということでしょう。日本や欧州諸国の人々の人間の安全保障を国連が面倒見るべきだという人はあまりいないと思います。それは、すでにこれらの国々は国家の力が十分に確立しており、人間の安全保障が国家の政策の中に「ビルトイン」されているからだと思います。そうした国家の力がない、あるいは及ばない場合に国際社会が助ける、それも人々自身を下から支えるというのがこの考え方のミソかと思います。

(2)その際の焦点は「助けてあげるべきだ」というときの動機です。久木田さんの論旨と一致すると思うのですが、その動機が「助けてあげたい」といういってみれば善意から発しているもので、やるかやらないかは助ける側の意図や経済的状況に委ねられているのか、それとも「助けなければならない」との義務感から発しているのかで、この概念を人権との対置でどこに位置づけるかが決まってくると思います。前者は、久木田さんがおっしゃるように、子どもの成長を誰もが喜ぶような、あるいは人を殺してはいけないと誰もが考えるような人間の普遍的な正義感や公正感に基づくもの、あるいはセンが「imperfect obligation」と呼んでいるものだと思います。後者はそれを積み上げていき、個人間、個人と国家間、個人と国際社会間の「perfect obligation」ないしルールとして精緻に規定しようとするものだと理解します。

(3)日本の人間の安全保障は、もともと開発援助の考え方に基づいたところが大きく、その意味では人間の普遍的な正義感や公正感に基づくゆるやかな概念です。一方、カナダがいう「保護する責任」のように、個人と国際社会の「perfect obligation」を規定することが人間の安全保障なのだという考え方もあります(いいすぎか?)。私は、われわれの求める人間の安全保障は、じつはこれらの中間にあるような気がしています。すなわち、国家の力が不足していたり及ばなかったりして困っている人々を助けるのは国際社会の強い道義的責任であり、やらなければならないことではあるけれども、それは個人と国際社会の直接の権利義務関係を規定する方法論であるというところまではいかない、ということかと思います。

とりとめがなくなってきたのでこの辺でやめますが、つまるところ、obligation, duty, responsibilityなど様々な言葉で表現される「責任」「義務」といった概念を、広いコンティニュアムのどの位置で捉えるかが、人間の安全保障という方法論と人権という概念の関係を規定するのではないでしょうか。

今日はこの辺で。また投稿します。

 

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