2005/02/09

グローバル・ジャスティス

NY国連フォーラムの皆様、

こんにちは。コロンビア大学の橋本のぞみと申します。

先日当校にて、ハーバード大学のアマルティア・セン教授およびニューヨーク大学のトーマス・ネーゲル教授をお招きして、「グローバルジャスティス」についてのパネルディスカッションがありましたので、以下に要約してご報告します。

ネーゲル教授:基本的人権からさらに進んで、経済的・社会的正義を世界規模で実現していく必要があるが、現在の世界にはまだ明確なコンセンサスを得た「社会経済的正義」は存在していない(自由経済主義・福祉国家などさまざまな「正義」に基づく制度が混在している)。果たして社会的背景の異なる各国に通用するような正義の概念の確立は可能だろうか。この問いに対し、全世界的正義は存在するが、各主権国家の存在がその普及を妨げているのだという考え方と、異なる国家には異なる道徳観念が形成されているという考え方がある。後者の場合、主権国家が合意により共通の正義を認識し、その普及を共同で行っていく必要がある。自分自身は後者の方法により世界共通の正義感が形成されていくことが現実的であると感じている。

セン教授:「正義」へのアプローチ方法は二種類ある。「正義」とは何かという問いから始まり、そこへ向かっていく方法と、相対的な「正義」の実現を積み重ねていく方法である。前者の場合、「正義」とは何かという議論に終始してしまい、正義の実現へ向けての動きが不十分になってしまう懸念がある。完璧な「正義」の定義は存在しえないし、異なる社会グループは異なる正義の概念を持っている。したがって、同意を得られない問いからではなく、誰もが同意する事実、すなわち「現在の世界において正義は実現されていない」という点から出発し、より正義と公正に近い選択肢を選び続けることによって正義を実現することが重要である。そのためには一人ひとりの市民が遠い世界の出来事に耳を傾け、自分の所属する社会や国家の枠を超えて一市民対一市民という関係を構築していくことが大切である。グローバリゼーションによって貧しい人たちもわずかに豊かになったが、一方でもとから豊かであった人々はますます急速に豊かになっている。もっと公正な富の分配が模索されるべきである。

また、質疑応答において、セン教授が「単純な市場経済の理論は正義の問題を解決することはできない―少なくともこの会場にそう信じている経済学者が二人います」(もう一人は司会のジョセフ・スティグリッツ教授)とおっしゃっていたことも心に残りました。

私自身、勉学に没入する毎日ですが、開発を志す者として、常に心に留めておくべき重要な問題であると思いました。多様な正義が存在する中で、自分の「正義」の概念を押し付けるようなことになってはいけない一方、理論だけではなく、道徳的価値観を持っていなければ方向性を誤った「開発」が進む恐れがあると思うからです。

まだきちんと消化できておらずうまくまとまりませんが、記憶が鮮明なうちにと思い、投稿させていただきます。

コロンビア大学 国際行政学院
経済政治開発専攻
橋本 のぞみ

7 Comments:

At 3:28 PM, Blogger Team UN Forum said...

橋本さん、UNフォーラムの皆さん、こんにちは

コロンビア大学SIPAの中村秀規です。橋本さん、投稿ありがとうございました。私はこのパネルディスカッションに参加できなかったので、とても参考になりました。

ユニセフの久木田さんは、本フォーラム第一回投稿で国連でのアマルテア・セン教授による正義/グローバリゼーションの話を紹介され、セン教授が「運命のように、そして疑いなく、正義が行われているように見えなければならない」と語ったと伝えてくださいました。また、アフリカ、アジア、日本、アメリカそれぞれにおいて(少なくとも原初の)正義が人間社会に存在すると、体験に基づきおっしゃっています。

コーヒーショップでコーヒーを買うのに、お昼時でお客も多く、お客は並んで自分の注文の番を待っている。そうしたときに、あとから来た人がどう注文するかについて「列をどう作るのか」、「列に割り込んでよいのか」、「列に友達や家族がいたらどうなるか」、「売り子が自分の知り合いだったらどうなるか」、・・・、こうしたことは「コーヒーを買う/売る」という経済行為を市場全体として分析する場合、取るに足らぬ/あるいは問題視されない事柄だと思いますが、人と社会の営為(いとなみ)を考える場合には無視し得ない要素と思います。

コーヒー店主やお客にとって、こうしたことを「感情」の問題だとして処理することがあり得る現実的な対処かもしれません。自分が買うつもりのジュースはお金を払う前に飲むのが自然なブラジルの人と、そうしたことは想像もつかない日本の人との間ではいざこざが起きるかもしれない、といったように、「異文化コミュニケーション」の問題だ、と捉えて対処する人もいるでしょう。

しかし私はここで、この卑近な例に、人間にとっての「正義の感覚」がいかに日常生活でまさに空気のように入り込んでいる重要なものか、ということを読み取りたいと思います。

「正義の感覚」を問題視することは、まさに「感情」を問題視することでしょう。そして確かに正義の感覚は文化によって規定されています。個人によっても考え方/感じ方は異なるでしょう。しかしその「感情問題」をうまく処理できないのは、大人として未成熟である、といった考え方は、私は当を得ていないと考えます。むしろ、人間は感情を持った存在であり、とりわけ「正義」、「衡平」の感覚が、日常の他者との関係性を判断する上で実に大きな役割を果たしており、民事訴訟にとどまらず、刑事裁判や行政訴訟、さらには(政府間/企業間の)国際交渉においても、交渉相手に対して怒りや憤りを覚える根拠としてまさに日々発動されている、と予想します。そしてまたそうした組織だった人類の経験は、各社会において法や判例、社会的ルールとして、無用な紛争を予防するための智恵となって蓄積/改善されてきている、と考えます。

正義が行われているかいないか、という判断は、おそらく文化によらずどの個人も感じ取ることでしょう。考える前に、まず感じ取る問題である、ということがこの問題の要諦をなすと思います。大義にもとづくテロリズムと、大義に基づく反テロリズムが行われている中で、「正義」の問題は好んでも好まなくても既に地球大の問題です。それはまさに経済統合の拡大と同様です。とすれば、この地球上に住む65億の人々が、それぞれに、「グロール・ジャスティス」について判断を持つことは、(いまだ判断を持たないでいる人にとってをも含めて)必然となります。

橋本さんがセン教授のことばとして書いていらっしゃる「誰もが同意する事実、すなわち『現在の世界において正義は実現されていない』という点から出発し、より正義と公正に近い選択肢を選び続けること」の必然性と有効性が、こうして、浮上することになると思います。

また、セン教授が指摘するアプローチは、まさに民主主義のそれでもあります。「完璧な正義(=現前し、かつ永続する最高権威)はありえない」という考え方に同意できるのなら、自分が今持つ正義もまた完璧ではあり得ず、したがって、人類として永遠に「より正義と公正」に近い選択肢を選び続けることが、可能になります。民主主義も同様に、そのような最高権威を予め設置しないことに特徴があり、実はこれは、どの人間も不完全であって、またかついかなる可能性をも秘めていると言う点で、国家計画主義を否定する自由主義とも通底する考えだと思います。

一方で、頭脳レベルだけでなく感情レベルで納得した形でグローバル・ジャスティスを実現するには、その正義に対するコミットメントがいかに得られるのか、という問題も考察されなければなりません。たんに理性を尽くした公共の討議、だけでひとはその討議の結果をコミットメントを持って引き受けることはしません。日本語には腹のそこで納得する、とか腑に落ちない、とかいう表現があります。納得感を持って選択を引き受ける/選択を我が事として生きるためには、討議を尽くすと同時に、偶有である、すなわち必然性も不可能性も否定されている未確定性の中で、あたかも自分は既にその選択をはじめから選び取っていたかのように、そのかつて選んだことの無い選択肢を選び取れること、これが必要になると思います。

このパラドキシカルな問題を考えるにあたって、自分自身に始めから潜む他者性をいかに自らの手で引き出すか、また社会としてそれを容易にする制度/工夫とはいかなるものか、これらの問いがポイントになると考えます。

中村秀規
コロンビア大学SIPA/MIA

 
At 5:45 PM, Blogger Team UN Forum said...

NY UN Forumの皆様


橋本さん、中村さんの議論に続かせいただきます。京都/インディアナ大学の米原です。

中村さんのおっしゃる「日常レベルでの正義感覚」あるいは「"腑に落ちる"正義感覚」の重要性に関して、全面的に賛成です。今「正義」の問題がいろいろな形で(ex. 人間の安全保障、災害からの自由)グローバルなレベルから発せられていますが、いわゆる戦後の「グローバル化」という現象が経済の分野に端を発するという歴史を持っているためなか、なかなか「普通のひとたちの当たり前の生活感覚」に結びきにくいのかと思います。ハーバマスの言うところの、個々人の"life world"(生活レベルでの規範意識や文化が形成される領域)が「グローバル」と呼ばれる人間の理性でもって創られた"alternative world"(注:これはハーバマスではなく、私の造
語です)と完全に乖離していて、両者の間に実感(=中村さんのご指摘されるところの「腑」)を伴った関係を見出せるひとの数が圧倒的に限られている、ということなのでしょうか。

「グローバル」という"alternative world"の難しいところは、誰もがそこの住人でありながら、また同時に、誰もそこには「実質的には」住んでいない、という点にあるのかと思います。つまり、やはり私の規範や文化というのは日本や大阪(私の"life world")の風土の中で培われたもので、そういった意味では"alternative world"には、「実質的・歴史的・文化的」には誰も住んでいない。毎朝中国製のカップでブラジル産のコーヒーを飲んでいても、その習慣が即ち「グローバルな正義感覚」を培ってくれるというふうには、残念ながらなっていないようです。理性や想像力や大儀でもって創造されている「グローバル」という概念空間に、どうやって日常レベルの感覚をもちこめるのか。理論的には"generalized others"(アイデンティティーの拡張を伴う合意によって想定される、誰でもない誰か cf.ハーバマス)が住んでいる場所こそが「グローバル」空間なのかとも思いますが、ならば、ひとりひとりが"generalized others"に自分自身をidentifyできれば、"life world"と"alternative world"の間に橋を渡すことができるのでしょうか。中村さんが「自分自身に始めから潜む他者性」という表現をされましたが、これが"generalized others"へのidentificationのカギとなるのでしょうか。

ただ、この「橋」を「正義感覚」に求めるとなると、その普遍性には若干の困難も感じます。ロールズの正義論に返れば、彼が「正義感覚」の想定範囲を西欧文化圏に限定しているのは明らかです。これは彼の文化的偏狭でも私の非西欧人としての変な東洋ノスタルジー(?!)でもなく、ただ、正義論という大理論が、すべての規範が持つどうしようもない文化性と歴史性に正直な理論だったというしかないのでしょう。正義論の適応範囲を越えようとしたロールズの"law of peoples"も「西欧」の域は出たものの、結局は"decent nations"の域を超え得ず、完全な普遍性にはとどきませんで
した。

一方で、センの潜在能力アプローチをリスト化したナスバウムは徹底的にその普遍性を追求していますが、彼女に則って、人間の必要最低限の機能(functionings)の配分に一定の普遍性を認めるとするならば、そこから正義の普遍性へ辿り着くまでの間で、何が障害となっているのでしょうか。中村さんがおっしゃるように、確かに「正義感覚の問題は感情の問題」でもあると思います。しかしながら、何かを正しい(あるいは正しくない)と「直感的に」感じる、その感情のみでは越えられない問題があり(ロールズも「(カント的)直感主義を否定できない」といいつつ、完全にそれに立脚してはいません)、そこに「個々人の特性的感情(ある種の正義感覚?)」と「正義の普遍性」との距離を感じます。センの潜在能力アプローチがこの問題をどう越えていけるのかは、管見の限り、まだ(理論の上ですら!)明瞭でないと思われます。。。


話がやや理論に傾倒してしまいましたが、センやロールズの理論を巡って各分野の多くの学者たちが(そして学者のみならず多くの人たちが)「グローバル時代の社会正義」について関心を示しているということ自体が、橋本さんのレポートにある、「より正義と公正に近い選択肢を選び続けること」のひとつの「選択」なのかも知れないと思うと、心強くも思います。自称カント派自由主義者(?)としては、これらの大議論/大理論が近い将来、21世紀版「永久平和のために」とその実現へと結実することを祈りつつ。

橋本さん、貴重なレポートをありがとうございました。中村さん、いつもいつも大変刺激的なコメントをご稿くださり、大変感謝しております。また、この投稿が中村さんのご投稿の最後の問題提起への関連を欠いてしまっていることをお詫び申し上げます。長文失礼致しました。


米原あき
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Aki YONEHARA (Murakami)
Fulbright Scholar
Ph.D Candidate and Graduate Assistant
in Education Policy Studies
email:
a411m@hotmail.com (English&Japanese)
amurakam@indiana.edu (English only)
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School of Education, Indiana University, USA
School of Education, Kyoto University, Japan
********************************************
"HAKUNA MATATA! -no worry"

 
At 5:53 PM, Blogger Team UN Forum said...

UNフォーラムの皆さんへ

コロンビア大学SIPAの中村秀規です。

米原さん、ご投稿ありがとうございます。応答いただきとても嬉しく思います。

以下、フォーラム上ではありますが、どちらかと言えば米原さんへのお返事として、議論を行わせていただきます(にもかかわらずフォーラム宛にする理由については以下のパラグラフをご覧ください)。

[[私は手紙が好きで、メールはもともとは一対一のコミュニケーション手段ですから、メーリングリストも、自分が伝えたいものを、その伝えたいものは破壊されないという安心感のもとで、受け手に伝える、という場であってよいのではないかと思っています。現在このフォーラムに参加している者の一人として、私はこのフォーラムを「公共性」の実現のささやかな実験として捉えています。公共性には自由と開放の両立が必要ですが、特に開放の維持は難しい。その中で、恐怖と不安なしに自己表現できる場を人間はほんとうに用意できるのか、ということに一番の関心を持っています。国連であるかないかに関わらず、個人ないし集合的なアイデンティティを有する存在が自己表現できる場が、はたして世界の中に、どんなに小さくてもいいから、いつも、用意されているのか、そこに、関心があります。そして現幹事の一人として、いまのフォーラムの仕組みには上記の安心感を与えるものがないと感じています。オフ会で直接面識を持つのは一つの方法で、あるいはまた以前在バングラデシュ大使館の紀谷さんが別なMLで呼びかけられたように自己紹介をするのがよいのかもしれませんが、制度としての効果的効率的手段はまだよくわかりません)。ブログサイトは他人が書いた日記を匿名性を有した他者が見に行く場所ですが、MLも同様に、議場内の議論が行われる場所のみならず、誰かが誰かに送った書簡を、匿名性を有した他者が読んでいる場所でもあると思います。ROM(Read Only Mode)という言葉のとおり、実質的に、そうなっていますし。私は個人的には集団での討議やディベートよりも一対一の手紙や会話を好みます]]


>> worldの間を架橋するもの <<

life worldとalternative
worldとを架橋するものは何か、といえば、それはいまだ存在しない、がしかし実際にあり得る可能性としてのアイデンティティの変容だけだ、と思います。社会学者の大澤真幸さんはこれを否定性/受動性による連帯と呼びます(共通項/共感できる事柄による積極的連帯と対比して)。

これはいい例だと思うのですが、京都の鴨川には「等間隔アベック」という名物?がありますよね。私は京都に住んだことは無いので話を聞いて、また遊びに行った際に見ただけですが、これは夏の夕暮れなどに、鴨川沿いにアベック(今ならカップルというのでしょうか)がなぜかきれいに等間隔に間を空けて座っているのを表現したものです。たしかに、橋から見ると綺麗に等間隔でした。

これらのカップルのそれぞれにとっては、他のカップルは存在していても存在していなくてもどうでもいいものです。あるいは、全てが美しく見えて、隣のカップルの幸福まで願っているかもしれませんが、いずれにしてもそれは自分たちのことが優先であって、その配慮の順序が変わったり、同列になったりすることはないでしょう。というよりも普通の状態でそんなことがあれば明らかに不自然です。

この例に見られるとおり、「配慮」が愛する対象、関心のある対象にのみ行われ、それ以外に対しては、敵意を持つか、あるいは(圧倒的にはそうですが)無関心であることが人間にとって一般でしょう。

ここであえて愛や共感の対象を広げるという方法を(直接的には)取らないことが、架橋のポイントだと思います(最終的には、そうなるのですが)。

「他者が自分の生きていない他なる可能性を生きている」という考え方をする場合、それは第一に、自分は自分自身のことに没頭/退却していいことを意味すると思います。「公共」とか「他者」とかの話や実践になると、どうしてもこの「自分は自分自身のことに没頭していてはいけない」という感覚と向き合わざるを得ません。でもその感覚はどう考えても不自然です。だからこそ実際、とりわけ実践者と他からも思われ自認もする人たちは、「やりたいからやっている」と思っているか、あるいはまたそう思えるように行動するよう努力もし、またその上で他者を「誘う/誘惑する」ようにしているのだと思います。そうすることで自分が教師となって「教えたり」、いやなセールスパーソンとして「善意とされるもの」を「押し売り」しなくて済むからです。他人は、その人が好きなようにその人の人生を送り、生活を営んでいるわけですから、そしてその多様性で社会や世界が構成されているのですから、自分が頑張って「公共」になる必要は無い。そんなふうに考えることができると思います。

しかしこれだけでは「連帯」が行われる理由がまったくありません。第二の段階が必要です。これは米原さんの困惑感とも通じると思います。ひとは、どんな条件下で、敵だと認知している存在や、関心を持つことの無かった存在と、コミュニケーションが可能になるのでしょうか。言語とも限らない、なんらかの形でのコミュニケーションが始まらなければ、「理性を尽くした公共の討議」など始まりようもありません。銃を手にとるひとは交渉のテーブルにつくことに不満を感じているからこそそうしているでしょう。単に、相手を根こそぎ絶滅したいから銃を取っている(あるいは、もっと効果的にはABC兵器を入手する)という例は少数だと思います。また、「組織的に」武器が使われている場合は、もっとリアリズム/功利主義に立脚した分析が功を奏すると思います。ここでは、「個人」としてどうしても「公共の討議」を受け入れられないケースを想定します。

架橋の第二のステップについてはまだ体系だった回答を持ちませんが、幾つかの点に触れてみたいと思います。

1.グローバルかつパーソナル

橋本さんの講演報告によればセン教授は「一人ひとりの市民が遠い世界の出来事に耳を傾け、自分の所属する社会や国家の枠を超えて一市民対一市民という関係を構築していくことが大切」とおっしゃっています。「一人ひとり」というところがポイントで、かつ、「アイデンティティに先行する理性」という著作のあるセン教授ですので、さらにその一人ひとりの理性への信頼があることも、特徴的だと思います。グローバルジャスティスについて個人として判断を下し、行動を行うこと、それが肝要になるはずです。そこでヒントを与えるのが、グローバルかつローカルではなく、グローバルかつパーソナルという捉え方です。24時間という時間を、一人ひとりはいろいろに使って生きています。その生活時間を仔細に観察すると、そのおのおのは、きっといずれかの社会の領野/領分sphereに属しているでしょう。瞑想すら、人間が文化として保持している蓄積の一部と捉えれば、一つの「領野」と言っていいと思います。そしてその領野のおのおのにおいて、繋がっている他者または文化体系は、それぞれ異なっています。そのどこかに、グローバルなこと(と普通される、遠い世界のこと)が、ひょっこりパーソナルな体験として登場すれば、それは自分の生活体験と繋がります。もし自分の好きなアーティストがストリートチルドレンの問題に関心を持っていれば、その人のファンのうちにはそのアートのみならずそのアーティストの関心事項にも、関心をいだくようになるかもしれません。これは、「マス」メディアではなく、ただ単にそのアーティストのアートが好きな人たちのパーソナルな経験の範囲内だからこそ、ひとはその別の関心に接触して、感染しうる、ということだと思います。他者の中にある自分、自分の中にある他者を発見するチャネルとしての、パーソナルな何か。実質的には、感染した時点ではもう「自分の関心」なので、「なんだ共感の対象拡大アプローチと一緒じゃないか」と思えますが、積極的には何も意図していない(自分は好きな曲を聴いていただけ)という点は、違っていることになります。

2.偶有性

「自分のうちなる可能性としての他者」といった(風変わりな)捉え方をするには、まず偶有性contingencyをどうにかして納得しないといけません。偶有性は必然性の否定と不可能性の否定からなり、特に不可能性が否定されているところがポイントだと思います。大澤真幸さんは、可能性には二種ある、と言っています。一つはたんなる論理的な可能性、もう一つは実現されなかったときに深い悔いの感情を伴いうるような可能性。重要なのは後者です。

「グローバルジャスティス」の実践がお題目でなく、どんなに小さくてもその実現の不可能性が否定されていることを見るには、反証の論理が役に立つと思います。たとえばThe Economistは自動車をshare共有し、共用することで環境負荷を下げていく取り組みのことを、いまはまだ「例外的だ」として報道します。つまり、主流化されなければ、意味はないという立場です。しかし、「環境負荷の低い、持続可能な社会を構築することは人類には可能だ」という命題を証明することは難しいのですが、同様に、「それは不可能だ」という命題を証明することも難しいのです。なぜならその手の不可能命題は、反証が一個でもあれば崩れるからです。

こうして、どこかの他者たちの取り組みである、たった一個の反例、たったひとりの反乱、が、希望をもちつづけるためには実に大きな役割を果たすことになります。

そして、この「取り組み」が、必ずしも自分自身のものである必要が無く、まず(自分とは異なった)他者たちのものであることも、非常に示唆的だと思います。そして私が何かを始めたとして、それは私以外の全ての人にとって、「他者」の取り組みです。自分がどうでありうるか、という選択は、明らかに、そうした「他者」たちの物語によって触発されている、と思います。

3.アイデンティティの変容と赦し/受容

契約行為において明らかなように、個人が統一されたアイデンティティを持つことは社会内の存在としてほとんど必須の条件です。契約で権利・義務を確定したのに、今日の俺は昨日の俺じゃない、と皆が言い出せば、契約という仕組みは成立するはずがありません。統合失調症(分裂病)が「病」と同定されているように、それを保つことが必然であり、失うことは問題だと、ふつう、されます。

一方で他者とコミュニケーションが始まったとき、そのとき既にひとは少しずつ(あるいは劇的に)アイデンティティを変容しているでしょう。自分も相手も相互作用によって変容することは、「架橋」の条件、あるいは「架橋(による連帯)」そのものです。

しかし他者とのコミュニケーション、とりわけ他者の最たるものかもしれない「敵」とのコミュニケーションを行うには、アイデンティティの変容以前にどうしても困難が伴います。私はこの問題に対するヒントをアルコール中毒患者家族の治療に長年あたってこられた信田さよ子さんという方の書いていらっしゃったことに見ます。

夫が妻に暴力をふるう。あきらかに被害者は妻で、夫が加害者なのだけれど、加害者がその加害者性を納得する/受け入れるためにも、まず実は被害者でなく、加害者が赦されている必要がある、と彼女は言います。

長期化する紛争や対立によって作られた「硬い」アイデンティティ/記憶は、容易にゆらごうとはしないようにも見えます。互いが互いを加害者として名指す状態においてこそ、加害者とされる側がまず存在を受容されている、つまり「自分にとってそうだと思われている自己のアイデンティティ」を変容させなくて良いとその加害者が信じている必要があり、そこに「第三者」の役割、介入の可能性が孕まれると思います。

加害者どうしが互いとコミュニケーションを始める前に、第三者がその加害者を受け入れること。こうしたことが、もっとも困難なコミュニケーションをも可能にするかもしれません。

統合失調症が人種によらず新人(ホモ・サピエンス・サピエンス、人類の亜種。もう一つの亜種は絶滅したとされるネアンデルタール人)に共通にある一定の確率で発生し、かつ人類の創造性(学芸のようなポジティブなものと犯罪のようなネガティブなものと両方を含みます)に深く寄与していることが示唆されています(少しそれますが、けっしてマジョリティではないが、ゼロでもない、という「比率」の問題は、他のマイノリティ問題やいじめの問題を含め、社会のシステムがどう構築されえるかを考える上でとても重要だと思います)。

私は私、敵は敵(味方は味方)、他人は他人(兄弟は他人の始まり、と言うときのような)、といった表現は、とても自然で、また集合的アイデンティティの成立・維持もこれまでのところほとんど必然に見えるのですが、それでも現生人類が基本的に同じ脳を有しており、そのゆらぎをも共有していることは、他者とのコミュニケーション/アイデンティティの変容の「不可能性の否定」の根拠の一つたりえると思います。そして接触感染contagionは、アイデンティティ喪失の恐怖を無化し、ゆらぎの可能性を開く、ひとつの触媒となると思います。


中村秀規
コロンビア大学SIPA/MIA

 
At 9:54 AM, Blogger Team UN Forum said...

UNフォーラムの皆さんへ

先回の、life worldとalternative worldをいかに架橋するか、について幾つかの点を追加させていただきます。

一点目は、架橋の第二ステップの一構成要素としてお話した、「アイデンティティの変容と赦し/受容」について、誰が誰を赦すのか、という点です。二点目は、グローバルジャスティスを個人として実行する場合の困難/落とし穴について、です。

1.通常、困難なことは、被害者が加害者を赦すことであり、また社会悪として認知される場合には、第三者が加害者を受容する(赦す、ではないにしても。なぜならその権利があるとは思えないから)ことだと考えられていると思います。実際、「考えられている」というよりも、「そうなっている」ように見えます。しかし、結局、真の困難は加害者が加害者自身を赦すことにあると考えます。人間は、自我が罪(や恥)を拒絶していても、内なる自己がそれ
を知らないでいることはないように思えます。したがって表面上の困難は、被害者が加害者の罪を赦すことにありますが、それは、加害者が加害者自身を赦すことによってしか、行われないと思います。第三者の役割は、その加害者自身の気づきを、暴力的にでなく促進すること、にあると思われます。

ひとは誰しも負債の感覚を有して生きており、そしてそれは集合的なアイデンティティを分有することによっても発生していると思います。「国家」の名において為されたこと、人の生死が、個人の一生の負債感覚ともなりえます。

硬いアイデンティティ、変容することの無い記憶は、「閉じた状態」と呼ぶことができると思います。アイデンティティ、すなわち時間的な継続性を自覚し、かつ外界と境界を持って相互作用するその「何か」は、正常な状態では閉じた状態と開かれた状態を適切に行き来できるはずですが、これがしばしば「閉じられたまま」になっていることが問題として感じられていると思います。

生理的には、脳神経系、免疫系、そして内分泌系がこのアイデンティティの生成維持を担っており、それが破綻することはまさに病気で、いつもいつも起きているようなことではありません。

そしてこれは身体のレベルのみでなく、心(最終的には心=身体だと思っていますが)のレベルでも起きることです。さらには、共同体/社会のレベルでも、起きることのように見えます。

心heartや社会のレベルでの赦しに関しては、精神mindによる対処が有効ではないか、と思います。言い換えれば理性による対処です。上に、「加害者自身の気づきを、暴力的にでなく促進する」と書きました。これは一見母性的な受容のようで、一見だけでなく事実もそうですが、しかしこのことを「意図的に」行っているとしたら、とりわけ社会のレベルでなんらかの「制度」として実行するとしたら、それは単に「母性や慈悲による対処」とは言えないと思います。憲法や立法、そして各種の政策/制度設計のレベルで議論することの意味が、あると考えます(なお、赦し/癒しの実践に関しては、芸術の持つ力も別途に考察される必要があるとも思います)。

2.グローバルジャスティスという、今のところカタカナで書くより他になさそうな事柄を、個人として実行していくにあたって、そこには特有の困難/落とし穴があるように思います。これはグローバルジャスティスに限ったことではなく、社会システムの変容に関わること全てに通じると思いますが、懐疑と情熱とのバランスです。

理論的なこと、現場体験/オペレーショナルな智恵、双方に当てはまることだと思いますが、徹底した懐疑や相当程度の情熱が無い限り、この社会システムの変容が容易に行われるとは思いません。そして陥りやすい罠は、懐疑、または情熱だけを持つという事態だと思えます。もっとも、懐疑も情熱も持たない無気力状態こそがいちばん多く見られる事態だとは思いますが。

それではこの困難への対処はなんでしょうか。「懐疑」に関しては、不徹底な懐疑ほど有害なものは無い、というものです。理論から攻めるのであれ、現場体験から攻めるのであれ、不十分なものは、安易な自己充足を生む、と感じています。どんなに掘っても、結局「岩盤」など無かったのだ、と言うぐらい、掘り進める懐疑でなければ、私たちが直面している困難には立ち向かいようがないと感じます。

大澤真幸さんがおっしゃるように、真の困難は「見る」ことにあると思います。しかし根底から懐疑する精神は、「見る」ことを可能にします。わたしたちの身体が実は最初から何を望んでいるのか、それを一歩一歩論理の階梯をたどることにより、自己啓発書的に「知る」のでなく、人類全体としてより精緻に共有可能な智恵/知識として、知ることが可能になります。

「閉じたシステム」は、徹底した懐疑を行う精神が生み出した智恵に触れたとき、実は癒され、まさに自分自身の姿を「見る」ことになるのだと思います。

「情熱」に関しては、接触感染、に方途を見ます。私から見て「灯台」のように光り輝く、情熱を持った方たちがいます。それは、たまたまそうした方たちがご両親や生まれ育った環境や、その他もろもろの事情でそうしたものに近いのかもしれませんし、あるいはご本人の努力がすごいということかもしれません。いずれにしても大事なことはそうした方たちが既にいる、ということです。私は、そうした方からエネルギーや勇気を得て、自分の日々を決定していける、と感じています。ちなみに、ブログサイト、あるいは学生が始めたというグリーというようなテクノロジー/仕組みは、実はこの接触感染をとんでもなく容易にしている気がします。

* * *

peace in mindや、peace in loveといった主題を、国会論戦や日経新聞の一面が取り上げることはあり得ないと感じますし、取り上げることがベストだともまったく思いませんが、人々にとって実質的にそうした事柄が主題化される、かつ政治や経済を論ずるとは結局そうしたことを論じることと別のものではない、というような感覚が広がると良いなと思っています。


以上、いつも長文でたいへん恐縮ですが、私としてはこうした書き方にある種の必然性を感じているので、ご寛恕いただければと思います。

中村秀規
Master of International Affairs program
Columbia University School of International and Public Affairs

 
At 8:26 PM, Blogger Team UN Forum said...

中村さん、NY国連フォーラムの皆さん

バングラの紀谷です。グローバル・ジャスティスについての投稿を拝読し、私もいろいろ考えさせられました。

自分のまわりの世界(life world)から、それを超えた世界(alternative world?)に思いを馳せることは、誰もが日々行っているのではないかと思います(津波災害への募金など)。そして、自分のまわりの世界をどの程度広げて考えるかは、どうあるべき、と議論するよりも、実践してナンボという問題ではないかと思います。

そもそも世界の正義はどうあるべき、というところから始めるのか(ジョン・ロールズの正義論など)、可能なところから正義を徐々に広げていくのか、という点についても、個々人にとってどちらの方が元気が出るか、どちらの方が納得できるか、という好みの問題という面もあるように感じております。

昨日、バングラデシュの国会議事堂を見学しました。大変立派できれいなところですが、与野党の対立による野党の国会ボイコット等で、あまり使われておりません。

「この立派できれいなところにいる国会議員が、村々にいる貧しい人たちの生活にどの程度思いを馳せているのだろうか」と感じましたが、振り返ってみれば、豊かな生活を送っている先進国の私たちが、途上国の人たちの存在を想像し実感することには大きなハードルがあるのと同じではないかと思いました。

結局のところ、人と人との交流・コミュニケーションは、それぞれの人たちにとって、小さなハードル、大きなハードルを超えながら、世界を広げていく営みではないかと思います。

そして、このグローバル・ジャスティスの話は、実践的な観点からは、人が歴史(過去に起こったこと)からバランス感覚を学び、触発・啓発されながら、あとは世の中でいかに交流し行動するかという、ある意味単純な話と感じております。

以上は、難しいことはなかなか考えられない私自身の「割り切り」です。まとまりがない断片的な文になってしまい恐縮ですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

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在バングラデシュ日本大使館 紀谷昌彦
Embassy of Japan in Bangladesh
Plot # 5&7, Baridhara, Dhaka, Bangladesh
Tel: +880-2-8810087
Fax: +880-2-8826737
E-mail: kiya@kiya.net
Website: http://www.bd.emb-japan.go.jp/

 
At 11:49 AM, Blogger Team UN Forum said...

NY国連フォーラムの皆さま、

はじめまして、オックスフォード大学forced migrationマスタープログラムの田島です。

グローバルジャスティス(やはりカタカナ表記ですね)の議論、興味深く拝見しております。個人が認識する空間を、更に深め広げる可能性について、私見を述べさせてください。

経済・社会正義的正義の実現については、拷問やジェノサイドの禁止、また公正な富と資源の分配等、いくつかのトピックがメディアや国際会議の議題に頻繁にあがってきており、また米原さんが言われるとおり、社会学者の多くがこの問題に興味を示していること自体、「より正義と構成に近い選択肢を選び続けること(橋本さんメモ)」に対して私たちが用意あることの証だと思います。

「そのためには一人ひとりの市民が遠い世界の出来事に耳を傾け、自分の所属する社会や国家の枠を超えて一市民対一市民という関係を構築していくことが大切である(同様橋本さんメモ)」のこと。この点中村さんの、パーソナルな認識対象をグローバルなものへと架橋する構成要素のお話は、勉強になりました。

特に興味を持った点は、「アイデンティティの変容と許し/許容」についての議論です。加害者と被害者という定義は、基本的に相対的・可変なものであると思います。たとえば、貧困問題について言えば、所属学部の研究者Jo Boydenは、貧困の現場にある子供がメディアや援助機関によって常に無垢な被害者として扱われている点を指摘し、地域の関係性に能動的に影響を及ぼす行動者としての存在であることを意識喚起しています(http://www2.qeh.ox.ac.uk/pdf/qehwp/qehwps116.pdf)。加害者と被害者を明確に分ける分水嶺が存在せず、複雑な因果関係で結ばれた社会においては、許容という概念は、更に困難なものとなるでしょう。制度は、法の名の下に、許しとは異なる形の衡平の理論で秩序を取りますが、私は中村さんの言われるように、同じ揺らぎを共有する脳を持つ事実や、芸術の力などにも興味を持っています(英国で難民の収容所を訪れる際、画用紙と絵の具を持っていったりすると、非難時にトラウマを負った人々とも話が弾んだりします)。

架橋のトピックに関連して個人的な経験に基づいて話を進めるならば、「実質的には住んでいない」場所に(一定期間)実際に迷い込んでしまったことは、私個人にとって強い経験となりました。途上国で村の人々にいろいろお説教をうけながら、同じものを食べ(結果としてお腹をこわし)、同じ場所にゴザを敷いて寝た経験は、結果として認識と共感の空間をリアルに広げることとなりました。肉体・精神の統合作用としての経験は、メディアやインターネット上の仮想体験とは異なる効果を個人に及ぼす気がします。

紀谷さんの言われるように、「実践してナンボ」の世界という点、ごもっともです。

私自身、これからも修行を続けたいと思っています。

田島麻衣子

Maiko Tajima
M.Sc. in Forced Migration, QEH, University of Oxford

St. Catherine's College, Oxford, OX1 3UJ

 
At 8:35 PM, Blogger Team UN Forum said...

皆さんこんにちは。

アカデミックな議論を拝見しています。
「正義の感覚」という点について、これまでの議論とちょっとずれてしまうかも しれませんが、開発途上国にいて日常や仕事から感じることを書かせてください。

カンボジアはご存知のように1976-1979年のクメールルージュ政権により、国外へ出れなかった知識人のほとんどを含む人口の1割が殺され、それまでの制度・システムは破壊され、家族は引き離されて学校もなく、人々は恐怖の中で田んぼを耕す生活を強いられました。今では治安が安定していますが、人材や国家制度という点では過去の歴史の影響が大きく、まだまだ発展への道のりは長いです。いわゆるソーシャルキャピタルも弱く、いろんなカンボジア人と話をしていても非常に他人やよその家族を警戒しているのが感じられます。また、家族・兄弟の話などを聞くと身内の人がほとんど誰かしら殺されているので、ときどき非常に重苦しいものを感じます。

他方、国レベルでは司法整備や司法改革が進められ、徐々に裁判官が育ってきたり、多くのドナーが支援をしています。また、つい最近ですが、クメールルージュ裁判の実施の準備が進められており、必要経費の56Mドルのうちの21.5Mドルを日本が今年度中に拠出するという発表がありました。

クメールルージュに対しては人々の気持ちは複雑で、正義は欲しいが暗い時代を思い出したりいざこざや争いが蒸しかえることを恐れている感じがします。他の国際裁判に比べて時期が遅いこともあり、主要核の人々は亡くなったり病気で先が長くないことから実施することの意義がどれくらいあるのかという疑問もあるでしょうし、政権のもとで働いていた下級官吏は虐殺に関わっていたけれど、当時は他に選択肢がなくマインドコントロールされていたので、多くが一般農民に戻っている中で、そうした過去を蒸し返すことで社会不安が増すのではないかという恐れがあると思います。しかし、虐殺という人道に対する罪を裁かないことはそれこそ基本的なジャスティスを否定してしまうのではないかということも言えるのではないかと思います。その意味ではカンボジアは、セン教授の言われる相対的な正義の実現を積み重ねる努力をしていると言えるのでしょう。

また、一般社会レベルでは、田舎の貧しい人々にはまず正義へのアクセスがほとんどありません。裁判所や裁判官、刑務所の数は非常に少なく、案件審査も滞り、裁判にはお金がかかるので、そもそも司法手続きへのアクセスが低いこともありますが、土地争いや刑事事件などで裁判沙汰になってもお金があるものが警察や裁判官を買収したりして、正義が実現されるという感覚が低いです。ここではいくつかの法律系NGOが活動して、土地手続きやレイプに対する訴えなどの支援をしていますが、大海の一滴であります。私の事務所では去年、Access to Justiceというプロジェクトの中で、人々がどのような問題解決を望むか調査したときに、コミュニティレベルでは和解(reconsiliation)を望む人が多く、
Alternative Dispute Resolution (ADR)のあり方を司法省とともに検討しています。政府側のパネルの一人が「JusticeとReconsiliationは違うものであり、それらの意味をよく考えた上でADRやinformal resolution mechanismは考えるべきだ」という発言があり、それ自身は非常に納得のいくことですが、こうしてアクセスがない人々が被害にあっている現在、事柄によってはADR等を検討する意味は大きいのではないかと感じました。

また、以前いたフィリピンでは、今も紛争が続くミンダナオに関連して爆発やテロ活動などに関連して、きちんとした証拠や手続きがなく、犯人として捕まえられるケースが多々あり、私の友人たちは人権活動をしたり人権委員会を立ち上げようとしています。こうした基本的人権の確保がそもそも十分で遵守されていない国はまだまだ多く、その問題がグローバルジャスティスとつながっていることも多いと思います。やはり出発点としては、国連加盟国としてサインしている国連憲章の基本的人権が守られているか、それぞれの国の主権は尊重しつつ、そこから正義を確保するためにどうすべきかを考え行動していくことが必要ではないでしょうか。ユニセフが採用して他の国連機関にも広まりつつあるHuman Rights-based Approach to Programmingなどはクロスカッティングに人権配慮することを私たち開発実践者に再発見させるものがあると思います。

私自身は、グローバルジャスティスとして正義の感覚を南北問題と結びつけることは、ミレニアム宣言やローマ宣言などにも出ていますし、今回の津波災害への支援という形でも現れているのではないかと思います。ただ、かわいそうだから支援するのではなく、相手の立場や国と国民の事情を思いやりつつ自立した国となれるよう支援を前向きにする努力やプロセスを積み重ねていく必要があるのではないかと感じます。

小西洋子
UNDPカンボジア

 

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