2005/03/25

ふんじゃ何をするか

また秋山です。林さん、紀谷さん、久しぶりです。

ODA関連の国際会議などにおける日本の発言の話でだいぶ盛り上がっているのでちょっとこの課題を私なりに整理する気になりました。ここでは日本の代表などが国際会議でほとんど積極的な発言をしないということに絞って分析しましょう。

この問題は30年以上前私が国連に勤めているときから問題になっていました。さて、30年もたち世界も日本もだいぶ変わりましたが、この問題(あえてもうひとつの問題を挙げれば国際機関で働く日本人が少ないということ)がなぜ30年以上改善されなかったのかということの理由をまず考えましょう。文化、教育、市場(林さんのコメント)などの問題がありますがそれらの制約内でこの問題を分析しましょう。この問題はODAだけでなく他の分野でも国際的に活躍する人に参考になるのではないでしょうか。

理由は、以下がちょっと考えただけで思い浮かびます。
1.関係者がこの問題の存在を知らない、または問題と考えていない。
2.この問題は認識されているが、改善する発言、行動をとるインセンティブがない。いやインセンティブどころか、マイナスになる可能性のほうが大きい。
3.発言すると言っても発言する内容がない。
4.そのような行動をとる組織的な制度がない。発言するには、いろいろなところへ連絡し、決済を取り、ETC.,ETC, そんなことは面倒くさいし、やったからと言って2日後の会議(2日後にまだ会議が続いていた場合)で発言しても意味がない。

各項目についての意見を述べさせていただくと以下のようになります。
1.欧米社会では、ある問題に関して、発言しないということはその問題がわからないか、考えていないか、意見を持っていないという非常にネガティブな効果があります。30年間国際機関で働きましたが、発言しないというのは国際会議だけでなく国際機関内部でもよく起こります。世銀の同僚などから言われたことは「日本人は物事を考えるのか。」です。一方、確かに変な発言をした場合、マイナスになります。ここからいえることは、会議なりのトピックに関して勉強し、自信を持って発言すべきということです。これは私も長年心がけたことです。また、欧米文化では、Identityが非常に重視されます。極端に言うと発言しないとその人は存在しないのです。日本におけるこの問題に対しての認識はだいぶ違うように思えます。しかし、Globalizationが進んでいる今、少なくとも国際舞台では、この日本の特異な文化から離れなければまずいのではないでしょうか。

2-4.これは制度的な問題です。その根本原因は日本がどれほどODAを重点的に扱っているかだと思います。組織は重要問題に関しては相当勉強、調査を含む準備をするのですが、その他は「適当にお茶をにごらせて」と言う風に扱われるのではないでしょうか。1.とも関連しますが、ODA戦略を練り上げ、英語ができ、論理的発言ができ、ODAの専門的知識がある人材を育成することが急務だと思います。これは、今の日本のODAの1%以下を使ってできることで、その効果はODA1%よりはるかに大きいでしょう。これこそがまさに国民に対する説明責任を果たすことになるのではないでしょうか。しかし、今までこれができなかったということは、このような些細な制度的変革をするにもTransaction Costが大きすぎるのかもしれません。それ自身が最大の問題かもしれません。

ふんじゃ何をするか

NYフォーラムの皆様、DCフォーラムの皆様

OECD/DAC事務局の宮本です。

国を代表する個人の限界から日本の国際議論の場におけるパフォーマンスまで、多くの方々のご意見が飛び交って、本当に素晴らしい事だと思います。DCフォーラムを始められた紀谷さんに改めて敬服いたします。あーだこーだといろいろな立場や視点でもってワイワイガヤガヤやって、その中から様々なアイデアが生まれ、不明な点が解明され、誤解も解け、お互いの事を知り合い、妥協点が見出され、協力可能な行動に移る、ということはしばしばある事でしょう。場合によっては最終的な結果や産物よりも、そのプロセス自体が価値有るものだったりするのではないでしょうか。国際機関の議場でも同じだと思います。

さて、この過程で私が又思い浮かんだ点が三つ程あります。まず、最近「質問箱」さんがご無沙汰しているようですが、もし中高生に、話題にあった「常任理事国入り」の件で、いったい日本は何でこれを希望しているか、と問われたら何と答えれば良いのでしょうか。これに関連して、日本はUNDPやOECDのトップの座を狙っている様ですが、これらを獲得して具体的に何が得られると期待し、そして何をこれらの機関に対して貢献できる、と考えているのでしょうか。ODA大綱に「国際機関の運営にもわが国の政策を適切に反映していく」とありますが、これはトップの座を獲得すればできるのか、他にどのような方法でできるのか、具体的にどういう政策を何で反映させたいのか、そして実際に反映されているのか、等と質問されれば何と答えたらよろしいのでしょうか。ちょっとこましゃくれた中高生ならこのくらいの事を聞きかねません。いろいろな方のご意見を伺いたいものです。

二点目は関連しておりますが、ODA大綱の序文のところに「国際社会の信頼を得る」、そして本文には「国際社会の共感を得られる」、と「国際場裡におけるわが国の立場の強化」とあります。私は1999年の対日援助審査を担当した時、前のODA大綱にも似たような事が書かれてあって以来、興味を持っております。何故なら、このような事を主要なODA政策に書く国はあまり他にないからです(見落としているのがあれば、教えてください)。

もしODA大綱に本気で取り組む意志があるなら、結果重視の観点からすると、実際にこれらが達成されたかどうか測る必要があるでしょう。国際社会、といっても広いので、例えば上記の国連、UNDP, OECD等の国際場裡で、実際に「信頼と共感が得られ、立場が強化されている」かどうか確認する方法はないのか、と考えます。これについて、我々日本人の間でいろいろ推測しても限界があるので、これに関する何らかの調査を行う事に多少なりとも意義があるのではないか、とふと思いました。これは量的な調査より、むしろ質的なものの方が役に立つのではないかと想像します。つまり、黒か白や点数よりも、日本のどういうところが信頼され、どういうところの立場が弱い、などという事を中立で正当な評価方式で行えたら有効ではないか、と思います。そしてその結果、プラスの部分は強化し、マイナスの部分はできるところまで改善する、どうしてもできないことはあきらめる、などときちんと対策を立て、前向きの姿勢で目的達成に臨むと良いのではないでしょうか。

三点目は、日本の行政の有り方で、いろいろ議論やご説明がありましたが、基本的にはどこの国の公務員もその国の政策に矛盾する発言は許されず (これは国際機関においても、私が「ODAなんか役に立たないから増やす必要なんかない」などと言おうものなら即クビです)、複数省庁間の方針一貫性、そして国民への影響の考慮などは、程度こそ異なれ、日本しか行っていない、ということはまずないと思います。ただ、その徹底性が国によって違うだけではないでしょうか。つまり、国際議場において、基本的姿勢を守っていれば、それ以外は何を言っても良い、という権限委譲型から、もっと細かく質問事項まで指示する中央集権型がありますが、両方一長一短あることでしょう。日本は言うまでもなく、国内事情により、後者に近いようですが、それによって損していることが、例えば上記の調査などによってわかれば、純利益を重視し、ある程度の徹底性を犠牲にし、1年等実験的にでも多少の権限委譲を試してみて、その後評価して再考してみる、という事をやってみてもよいのではないかと考えます。

やっと最後になりますが、日本の援助改善や国際的地位の向上は、外務省だけの責任ではなく、携わっている我々一人一人の責任でもあると私は思います。

またいろいろな方の御反応を楽しみにしております。

宮本香織

国家公務員/国際公務員と「私」

秋山様、みなさん、こんにちは 林@文教大学 です。

秋山さん、いつもお世話になっています。「個人」と「組織」の問題は難しいですが、私は一つの理由は「市場」の問題だと思っています。市場という意味には二つあって、一つは労働市場です。組織と自分の考え方が合わない場合、辞めても受け皿があるかどうかが重要だと思います。10年くらい前に一世を風靡した青木昌彦氏の比較制度分析に詳しく論じていましたが、労働市場が未発達だから、結局組織に特有な(contextual)スキルを見につけるしかないが、そうするとますます市場では流通できなくなり市場も発達しないという悪循環です。私も長らく組織の中で働いていたのですが、この「壁」を強く感じていました。実力と勇気がなかっただけかもしれませんが・・・・・

もう一つの市場の問題は「政策の市場」です。米国のように頻繁に政権交代があり、シンクタンクなどが政策を売り込みまた人材をストックしていくとというメカニズムがあれば、リスクは高いですが自分の主張や信条を優先してキャリアを形成していくことができると思います。日本の場合には政策形成を官庁が独占していたり、シンクタンクや大学も官庁、援助機関などからの委嘱や委託に依存するところが大きいです。Policy Spaceが狭いといったらいいのでしょうか。

この市場の制約による依存は、途上国で市場が未発達なため農民が仲買人やインフォーマル金融に資金、情報その他さまざまな面で依存せざるをえない、ということと似てなくもないと思っています。

でも、秋山さんがご指摘のように、少しづつ変化していると思います。国内で政策議論の幅を広げていかないと、なかなか緒方さんのいうように「政策論や国際的な共通利益の問題での主導力」を発揮することは難しいのではないかと思います。国内市場で競争がないところで国際市場に打って出るのは難しい、ということではないでしょうか。

(了)

出先機関ないし交渉者の役割

初めて発言いたします、UNIDO東京事務所の西田と言います。

かなり以前に在ウィーン日本政府代表部の担当官各位と類似の議論をさせていただいたことがあり、その際にも「出先機関ないし交渉者の役割」について同様のご見解を承った記憶があります。そこから類推するに、これは「交渉者の役割」に関する既定の整理か、そうでなくても外交筋には割と広く共有されている考え方なのではないかと思います。

こなた、陪席者の国際機関側事務局員からは「(日本は)あまり議論に参加しない」という感想がしばしば漏れ聞かれることも事実と思います。過去に日本で開催された学会等でも類似の議論はありましたし、私自身、本部の職員から「(日本は非公式の会議だと)遅く来て、脇に座り、早く帰るね」的なシニカルなジョークを聞かされた経験もあります。バイの「交渉」とマルチの「会議」の差かも知れません。

>日本が何を考えているのかを分かりやすく伝えることであろうかと

確かにその通りではありましょうが、特にマルチの場合それだけでは十分でなく「今、そこで行われている議論」に参加し、主張すべきはするという責任も負っているのではないかと、私は考えております。公電で報告し、訓令を待っている間に議論はずっと先に進み、参加者の脳裏には「誰が何を言ったか」がその顔や声とともに刻み込まれます。同じ顔ぶれが並ぶ次回の会議で、印象深い前回の発言者の言葉が引用・参照されることも稀ではありません(そしてそれが全体議論の軸となることさえも)。こなた発言が主張中心ではなく理解の希求や誤解の予防線というトーンになると、それがために訴求力を欠き議論の軸になりにくいというような側面があるのは、何も国際会議だけでなく洋の東西を問わず変わらないように思います。

出先機関ないし交渉者の役割

皆様

一連のメールのやり取りを拝見していて、交渉者とは何か出先の役割とはについてご説明する必要があるように感じております。80年代に日米貿易摩擦華やかなりし時に、外務省の先輩が日米交渉を「共同努力」(joint efforts)と呼んでおりました。そしてその意味がお互いに国内の代表すべき立場(constituency)を背景に持っている日米の交渉者同士が何が落としどころになるのかを共同で探り合って妥協点を見いだすことを指しているのを仕事を通じて理解しました。交渉者とはお互いの立場を主張するだけのつばぜり合いを最前線で行う人達であるだけのように思っている人も世間にはいるかも知れませんが、それであったら交渉者の存在意義はあまりないのです。それぞれの国の将来のあり方まで視野に入れて現実の制約の中で何が最もプロダクティブな落としどころであるかを相手方とさぐり合い、その次には国内を説得するという役割を果たすのが交渉者だと思います。

援助をめぐる議論についても言えることですが、出先からみれば国際援助世論の動向の趨勢とその背景にある考え方が本部からみているより良く分かるのは当然だと思います。他方で、本部からみれば諸外国にはすぐには理解できない諸般の事情があってそれを背景とした国としての対処方針が出てくるのだろうと思われます。出先の仕事は、こうした狭間に立って、本部にはドナー・コミュニティの動きを色眼鏡なしに分析・評価して伝え、諸外国に対しては日本が何を考えているのかを分かりやすく伝えることであろうかと思います。その過程では、本国からみれば諸外国の言いなりになっている腰抜けのように思われるかも知れないし、諸外国からみれば頭の固い保守的なコンコンチキのように思われることがあるかも知れません。しかし、それは交渉者の宿命のようなものであり、そういう誤解を両方向から受ける怖れが皆無であるような仕事ぶりであっては、交渉者の存在意義は乏しいと私は考えております。

OECD代表部 松永大介
Daisuke Matsunaga, DAC delegate for Japan
tel: 33-(0)1-53-76-61-21
fax: 33-(0)1-45-63-05-44

国家公務員/国際公務員と「私」

中村さん、宮本さん、植田さん、吉原さん、柴田さん、秋山さん、塚田さんDC開発フォーラム・NY国連フォーラムの皆さんへ

在バングラデシュ日本大使館の紀谷です。世界各地からのご意見を楽しく拝読しています。私からも若干の感想を投稿させていただきます。

●組織と個人の対立?

国家公務員や国際公務員にとって、「組織が決定した価値・方向性」と「個人の信じる価値・方向性」が食い違うときに、どのように行動すべきか、という問題提起をいただきました。これについては、植田さんの指摘されるように、そもそも組織の価値・方向性は柔軟なものである、ととらえるべきものではないかと思います。

どの組織も、ミッション・ステートメントのレベルまで遡れば、とても有意義に感じられるのではないでしょうか。たとえば日本政府も、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という憲法のもと、様々な関係者が議論し、協力しながら仕事をしています。

中村さんがおっしゃるように、そのなかで組織文化や組織の自律的な動きが制約・障害と感じられるのであれば、高次のミッションを胸に、組織文化の改善・変革(チェンジ・マネジメント)に取り組むことも、一つの良い選択だと思います。むしろ、政府にせよ、国際機関にせよ、もし不適切な制約・障害を感じるとすれば、居残ってそれを取り除くことこそ大事な仕事でしょう。

新たな価値は、このような歪みやギャップが存在するところに眠っていることが多いと思います。「縦割り主義」「お役所主義」「無謬神話」の結果として生じている組織・部局間の情報・知見のギャップを裁定(arbitrage)すれば、双方にとってメリットが生じます。相互信頼に基づくネットワークがあれば、このような裁定がやりやすくなります。

中村さんは、「組織や制度というものは、一個人および一個人のネットワークの自由(=開発、安全保障、尊厳)を守り実現していくために存在するもので、その逆ではない」と主張されていますが、ゆるやかなオープン・ネットワーク(具体的にはDC開発フォーラムやNY国連フォーラムなど)は、個人のみならず、実は組織にとっても大きな価値・利益をもたらし得るものだと感じております。(むしろ、組織が音頭をとってそのようなネットワークを作ってもおかしくないと思うくらいです。)

国連で扱っているようなグローバル・イシュー、特に開発問題については、大部分の情報・知見は公開可能です。これらの情報・知見を効果的・効率的な形で積極的に組織外に出すことで、その組織に対する関心・信頼が高まり、理解が深まるのみならず、それに対する反応や議論を通じて情報・知見の質を高められるように思います。

現在の大部分の情報・知見は、占有することではなく、発信することにより価値が高まる、という点につき、多くの組織は認識しはじめていると感じています。そして、そのような認識を持ち、実践する組織こそ(個人も?)、今後発展していくのではないでしょうか。

●個別利益と共通利益?

また、宮本さんからは、「日本は財政面で貢献しているのに何ら地位を得ていないと不満を持つが、その貢献のわりには政策論や国際的な共通利益の問題での主導力がない。自分の利害だけでなく、自分の利害を全体の中で位置づけ、全体の利害を強化する政策を示していくのが国連外交です。」との緒方貞子氏の発言を引用いただきました。そして、国際会議で日本の代表団が代表スピーチ以外ほとんど発言しなかった事例をもとに、その理由はどこにあるのか、との問題提起をいただきました。

塚田さんのいうように、国際会議でのプレゼン(言葉や文化の問題もあり国際連盟の昔から得意な分野ではないかもしれません)だけでなく、総合力・実行力・信頼感も大事だと思います。

しかし、国連外交にせよ、開発援助にせよ、特に欧米等と比べて、「うまく国際的にプレゼンできない」というコンプレックスと、「実際は日本こそやっているんだ/他国こそ言葉ばかりだ」という自尊心の入り混じった気持ち(自省を込めて申し上げます!)を乗り越え、等身大で、自然な形で取り組むことが必要ではないかと思います。短所は短所、長所は長所と素直に受けとめることが、将来にとって有益だと思います。

結局のところ、日本の利益と世界や他国の利益を一致させ、増進する構想力と実行力が求められているのでしょう。限られた自分の経験をもとに申し上げれば、このためには、「国際的な共通利益を推進する強い意思」と、「国内外の様々な関係者と意見交換し、共通点を模索するコミュニケーション能力」が特に大事ではないかと感じております。

どこの組織にもある問題ではないかと思いますが、前例や周囲を見て、自らハードルを下げてしまうと、そこから先に進むことは難しくなります。逆に、目線を高く持ち、背伸び(ストレッチ)をして、より高次の利益、より中長期的な利益を目指せば、新たな価値や能力を引き出すことができるように思います。そして、日々新聞を賑わせるような主要外交課題だけでなく、個々の小会議や途上国現地での外交・開発援助まで、個々の担い手が気概と充実感を持って取り組めるようにしていくこと(マネジメントの改善)が大事だと思います。何しろ、日本は大きいのですから。

●実践と発信!

議論は議論で必要なのですが、物事はやってナンボ、結果を出してナンボというところがあるので、評論家にならずに、議論の結果をどのように実行に移していくかというところも重要だと思います。

昨日、スタディツアーの大学生十数名が、ダッカ到着直後の最初のプログラムとして、在バングラデシュ日本大使館を訪れました。「日本人は途上国に援助すべきか」という尋ねたところ、お金が有効に使われるかわからない、技術を教えるのは良いがお金まで出す必要はない、まずは途上国の金持ちが国内で援助すべき、といった意見が大勢を占めました。

しかし、「あなたがもしバングラデシュの国民で、親も子供も病気になり、医療制度も社会保障制度も不十分という状況に置かれれば、先進国に助けてほしいと思うか」と尋ねたところ、先進国では豊かな生活を送っているのだから、一時的にでも援助してほしい、豊かになった暁には他国に援助をして恩返しすべき、という意見になりました。

以前、小和田恒氏がDC開発フォーラムBBLで述べたように、開発問題は(経済問題というより)国際社会の社会問題という捉え方をするのがわかりやすいと思います。途上国の人たちを、日本という社会の部外者と捉えるのか、あるいは世界という社会の一員と捉えるのかによって、上の答えのニュアンスの違いが出てきたのではないかと思います。日本国内の一人一人と、世界と日本の問題について対話する重要性を改めて感じました。

日本と世界を結びつけ、そして日本が世界の中で「主導力」を更に発揮していくためには、様々な正面での仕事が必要になってくると思います。DC開発フォーラムやNY国連フォーラムが、世界各地でそのような努力をしている人たちが、お互いの取り組みを紹介し合い、励まし合い、そしてエネルギーを与え合うような場になれば良いと思っております。

長い投稿になってしまい恐縮です。今後ともよろしくお願い致します。

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在バングラデシュ日本大使館 紀谷昌彦
Embassy of Japan in Bangladesh
Plot # 5&7, Baridhara, Dhaka, Bangladesh
Tel: +880-2-8810087
Fax: +880-2-8826737
E-mail: kiya@kiya.net
Website: http://www.bd.emb-japan.go.jp/

北岡大使の国連改革に関する寄稿/国連事務総長報告

UNフォーラムの皆さんへ

コロンビア大学SIPA/MIAの中村秀規です。

国連改革に関して、国連代表部の北岡大使が中 央公論および外交フォーラムに寄稿された文章が外務省ホームページで公開されているのでご案内いたします。私はウェブで始めて読ませていただきましたが、 日本の方向性と国連の方向性との対比、ブッシュ再選と沖縄返還との対比、そしてジェフリー・サックス教授との電話など、論点のみならず、個別の話も面白 く、また国連改革という大きなテーマについて触れている一方で文体も含めてとても分かりやすいと感じました:

国連改革に関する寄稿等 戦後日本外交における国連(外交フォーラム 平成17年4月号)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/iken/05/0504.html

国連改革に関する寄稿等 安保理の舞台裏:国連代表部の多忙な一日(中央公論 平成17年3月号)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/iken/05/0503.html

国連改革に関する寄稿等 国連大使、現場からの提言:常任理事国入りは日本が果たすべき責任である(中央公論平成17年1月号)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/iken/05/0501.html

また、3月20日(日)、9月のミレニアム宣言に関する首脳会合に向けて、「ハイレベル委員会」報告書及び「ミレニアム・プロジェクト」報告書を踏まえたコフィ・アナン国連事務総長の報告「より大きな自由を求めて」が公表されました。以下は外務省ホームページでの概要説明(町村外相談話)と国連ホームページに掲載されている報告書です:

外務省プレスリリース、アナン国連事務総長報告の公表について
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/17/dmc_0321.html

アナン国連事務総長の報告「より大きな自由を求めて」
http://www.un.org/largerfreedom/

外務省のページを見ると、開発、安全(平和/安全保障)、尊厳(人権)を自由の概念のもとに統一的に捉えられること、さらにはその世界大での達成に向けて国連(マネジメント)が何をなしうるか/すべきかという視点(整理の仕方/概念枠組み)が示されており、分かりやすいと思いました。前者の3つの課題について考える上でも、後者の国連マネジメント/実効性・効率性の向上について、日本は国連をどう使うのか/使わないのか、国連にとって日本はどういう国なのか/どういう国でありえるのか、という検討が重要になると、北岡大使の文章と合わせながら考えました。

中村秀規
コロンビア大学SIPA/MIA

謝辞:在バングラデシュ大使館の紀谷さん、UNDPの粒良さん、上記の情報提供ありがとうございました。

国家公務員/国際 公務員と「私」

FASIDの秋山です。今ワシントンから書いています。国か個人化という問題ですが、文化、歴史的な影響で、ほとんどの日本人には、「個人」という概念がないと思います。そもそも国家とは個人からなっているという考えが大事だと思います。国家公務員の場合、あまりにもすごい減点主義が個人が自分の意見を言うメリットが何もないということ、また、ほかの人がそのようなことをAppreciateしないことなどがあるでしょう。また日本の学校では、ただ先生の意見を聞くという授業形態があり、自分の意見をきちんと言う訓練を受けていないということもあります。

それでも30年前とは多少変わってきているのではないでしょうか。少なくとも私のように30年以上欧米で働いてきた人間が日本でもは少なくともこの3年以上働けたということは日本も変わったのでしょう。まだまだ少人数ですが、このままではまずい、もっと新しいことを考える人間が必要と言う要望があるからでしょう。日本での会合でもはっきりと論理だてて自分の意見を言う人が「できる人」とみなされるようになってきていると思います。ただし、このような変化に役所は一番遅れているのではないでしょうか。このためキャリアでも役所を辞める人が増えているそうです。

私は昔の帰国子女なので小さいときからこのようなことを考えてきたので、長々と書いてしまいました。

秋山

国家公務員/国際公務員と「私」

中村さん、DCフォーラム、NYフォーラムのみなさん

 以前、アイデンティティ論や、守秘義務について提起した責任もありますので、我が国の国家公務員については事実関係として案外盲点になっていることを付言します。要するに下の議論をはしょって説明したにすぎなくなるかもしれませんが。

・みなさんはご存じかわかりませんが、国家公務員は就職した際に、日本国憲法及びそのもとに成立した政府に対する忠誠義務を記した誓約書に署名をすることになっています。

・我が国の場合、法律上は国家公務員は民間と比べ特別視されていて、「特別権力関係」のカテゴリーで一定の待遇と同時に政治的権利、労働権が制約されています。ここは下記の経緯もあり、労働関係の国際機関からも指摘を受けているところです。

・この点、わりと一定時期民間人をやりつつ「公務員」をこなす方も多いと聞いているドイツなどとは違います(間違っていたらご指摘下さい。)。

・要は我が国の場合、「公」と「私」の分け方、「公務」と「民間」の分け方、更に語弊をおそれずに言えば「公務員」と「民間人」との間に独特の落差があるのです。

よしはらけんご拝@外務省

国家公務員/国際公務員と「私」

UNフォーラム、DCフォーラムの皆さんへ

宮本さん、植田さん、応答ありがとうございます。

植田さんのお書きになった「ある組織が厳然として、個を離れて存在する」かどうかについてコメントさせていただきます。

企業が「法人格」を持って組織としてその他の法的主体と契約(ひらたくは約束)ができる、ということは、「個人」とは別に「個人のようなもの」を作っていると言えるかと思います(また、その法人と経営者(人間)との関係は、信任となっていて、従業員との関係とは異なり、(人間ではない)「法人」の独特な地位を示しているかと思います)。同様に、国家関係においても、国際条約の批准等において「国家」がある種の約束を他の主体と結べることになっており、そのために政権の変動など「国家」のコミットメントが企業以上に信用されないという話にも繋がるかと思います。したがって、こうした理解の上での「組織の自律性」は、現にあるのではないかと思います。卑近ですが、私が新卒でJICAに入った際に「決裁とは組織としての意思決定を行うためのもの」と知ったり、「個人でなく組織で外部(コンサルタント個人または会社)と契約する」といった経験は新鮮なものに見えました。

一方で、議論のきっかけが外務省の方の個人としての意見表明の難しさ、でしたので、「国」に焦点を当てていたのですが、「国」という所属は、民間企業や国際機関といった「職場(組織)」と違っていて、国籍という身体管理を自由意志で変えていくことは、不可能ではないですが、職場選択ほど自由ではないところがかなり違うと思われます。残念ながら、黒澤映画「生きる」は見たことが無いのですが、同様に映画のシーンを引用させていただくと、「Hotel Rwanda」で国外脱出できるかどうかが白人か黒人かできれいに分かれていくところや、さらに空港でパスポートでルワンダ人でないことが示されると黒人であっても飛行機に乗り込めるシーンなどは(これが史実に忠実かどうかは私にはわかりませんが)現在の国家という仕組みによる身体管理を正確に映し出しているように思えました。

また、植田さんがおっしゃるとおり、「カルチャー」というのはいつしかやはりどこにも出来上がっていると思いますし、それに合う人が就職/転職し、合わない人は去る、ということがさまざまの組織で起きていると思いますが、例えば行政組織は何らかの公益、企業であれば利潤、非営利組織であれば特定のミッション/理念などの追求がそれぞれの組織にかなり自律的に存在しており、多重人格的に内部の価値/行動の多様性が認められる幅にはおのずと限度があると思います。

さらに、組織は自己増殖を行う、というような意味での自律性(個の意思を越えているように思われる部分)もあるかと思います。

その一方で、組織は広く言えば社会(システム)の一部で、人間関係(個の行為の総体)から構成されるものですので、個と組織との関係は、個と人間関係との関係と言い直すことができ、こう表現すると、組織に自律性はあるものの、その可塑的・可変的な実態がイメージしやすいかとも思います。そうは言っても、「役所的/官僚的」という表現や、あるいはまた「教条的/イデオロギー的」という表現に見られるような「硬直化」が起こりうるので、それらは個の自由に対立すると主張したつもりでした。組織/制度、細かくはルールといった仕組みは、個人の自由に対してポジティブにもネガティブにも働きうると思います。私は「個(心理システム/自我)」と、「個の行為の総体(社会、組織)」との区別は可能であるとの立場で議論しています。

これで少しでも意図が伝われば幸いです。

中村秀規
コロンビア大学SIPA/MIA

国家公務員/国際公務員と「私」

中村さん、宮本さん、考察興味深く拝読しました。以下、簡単な私見です。

私がアメリカボケをしているのかもしれませんが、ある組織が厳然として、個を離れて存在するとどうも捉えられていらっしゃる気がします。あることに関して具体的にどのような意見を述べるか、どのような政策をとるか、など法律には細かく書いてありませんから、組織としての省なり国際機関なりが(民間企業も)どのように毎日仕事をするかは、組織の文化のようなものによるのではないかと思います。どの組織も「私」の集まりであり、一人一人が正しいとおもうことをいかに仲間に伝え、説得し、それを追求していくのかというのが、組織と個人の関係で、組織としての文化はそのなかでできてくるのであり、組織の文化はそれを構成する多くの「私」たちの思考でしょう。何とか他の多くの「私」たちの意見に「私」の思考を反映していこうとするというのが、緒方さんがおっしゃっているような積極的な貢献ではないかと思います。それがどうしても無理そうだった杉原さんのケースや、卑近な例では、IMFに入社してしまったアンチグローバリゼーションの固まりのような人がいるとすれば、そういう人は、組織をやめるかやめさせられることを覚悟で個人の理想を追求せざるを得ないのでしょう。他の組織と見比べて、移るという選択も当然あるでしょうし、または、今いる組織で毎日頑張るしかないのではないかと思います。会議で黙っている(消極的反抗)など、毎日やり過ごすというのも一つの手かもしれませんが、生産的ではないですよね(黒澤明の「生きる」を見てください、東京都庁職員の葛藤がうまく描かれています)。

植田健一

国家公務員/国際公務員と「私」

UNフォーラムとついでにDCフォーラムの皆様へ(二度受け取られる方はお許しく
ださい)

OECD DAC事務局の宮本です。

以下の中村さんによる行政組織における個人の自由や自発性に対する御考察、大変共感いたしましたので、両フォーラムにおいて全く関連なくも無い事を二点申し上げたいと思います。

まず、このテーマについて連想したのは杉原千畝外交官の歴史的行為です。有名な話ですが、念のため御存知のない方のために簡単に説明しますと、第二次世界大戦前半、リトアニアの日本総領事館に勤務していた氏は、日本政府の反対を押し切ってユダヤ人6千人以上に日本への通過ビザを発給して国外脱出を可能にし、彼らの強制収容所送還を回避させた人です。氏は終戦後、実質的には外務省から解雇され、職を転々としながら静かに暮らしていたそうですが、その行為によって命を救われた人々にその後探し出され、亡くなる1年前の1985年にイスラエルの最高名誉賞を授かることになりました。氏は"Righteous Among the Nations (「諸国民の中の正義の人」)"と称され、エルサレムにスギハラと名づけられた公園か道があるそうです。氏はよく「政府には背いたかもしれないが、そうでなければ神に背く事になった」という様な事を言っておられたそうです。杉原氏に関するHPは世界中多くの言語で掲載されてい
るので、もしご存知でなければご覧ください。

その時代の組織の偏狭な規律に反して、永遠普遍である「正義」や「真実」を追求し、世界の平和や人々のために自己犠牲を払う人は世の中にどれくらいいるでしょうか。そしてそれ程大袈裟な事でなく、日常の開発の仕事において、この両フォーラムのメンバーの中でも、所属する組織の目先の利潤よりももっと広範なコミュニティの利益を優先する人はどれくらいいるでしょうか。私がもっと知りたいのは、我々が属する日本政府、実施機関、国際機関、ないし大学研究機関がそれぞれ、このような対立する選択に迫られた個人に対し、どの程度「広範なコミュニティの利益を優先する」自由を与えているのかということです。中村さんが書かれた「自律性が自閉性に転じたとき、あらゆる組織はその内外の一個人(とそのネットワーク)を
圧殺してゆく暴力機械に変貌する」や「組織や制度というものは、一個人および一個人のネットワークの自由(=開発、安全保障、尊厳)を守り実現していくために存在するもので、その
逆ではない」と書かれた事には全く同感です。

もう一点は、柴田さんが20日朝日に掲載された緒方貞子氏のインタビューをご紹介されましたが、私も氏と同感する箇所がありましたので、関連づけたいと思います。

それは、安保理常任理事国拡大について、「日本は財政面で貢献しているのに何ら地位を得ていないと不満を持つが、その貢献のわりには政策論や国際的な共通利益の問題での主導力がない。自分の利害だけでなく、自分の利害を全体の中で位置づけ、全体の利害を強化する政策を示していくのが国連外交です。」と言われた事です。

これはまさにOECDの議論の場にも該当しなくもない事ですが、国連に関して、私は最近Commission for Social Development (Copenhagen +10) とCommission for the Status of Women (Beijing+10)の二大会議に出席する機会があり、これを実感しました。

つまりplenaryにおいて代表団長が公式文章を読み上げる以外、議論の場ではほとんど日本の代表は質問をしたり、新しいアイデアを提案したり、異議を申し立てたりする事がありませんでした。とても残念な事です。恐らく代表の方々は真面目にノートを取り、しっちゃかめっちゃか言いたい放題言う国の論理もきちんと整理し、忠実に東京に報告する準備をしていたのでしょう。これは日本人の間では想像できることでしょうが、他国の人々はそうは解釈してくれないかもしれません。人数ばかり多くて何してるのかしらん、と奇異に映っている事だと思います。

アメリカみたいに大統領の個人的見解を無理やり押し付けようとしたり、パレスチナの様にイスラエルに当り散らしたりする国も困りますが、途上国でもフィリピン、南ア、キューバ、ルワンダ等など一生懸命代表が意見を述べ、国際社会の一員として次世代がより住み易い平和な世界にしていこう、という努力をしているのを見ていると、まるで傍聴席にでもいるように沈黙を守っているは日本はあまりにも情けない気もしました。

これは中央集権的な政府が上記に述べた「広範なコミュニティの利益」を追求する自由を代表の方々にあまり与えていないのか、知的資源が乏しいのか、言語のハンディがあるのか、私にはよくわかりません。日本人の私でさえ理解できないのだから、他国の人々にはもっと不可思議なことでしょう。そしてこういう国が常任理事国のメンバーになり、目先の国益を犠牲にしてまで世界という「より広範なコミュニティの平和」のために努力してくれる、といって多くの国々に信頼されているでしょうか。もし自己反省してそうではないかもしれない、と考えるなら、ではいったいどうしたら良いのか、という建設的な案を出す必要があると思います。そのためには小手先の改革ではなく、かなり根本的なところから見直しをしていかなければならないものかもしれない、と私には思えます。

宮本香織

UN at the crossroads、そして日本も!?

小西さん、皆さん、柴田です。
前回、1月20日(木)に以下のように発言してから2ヶ月経過し、
3月20日には予定通りアナン事務総長の改革報告書が公表さ
れ、日本でも22日に新聞に載りました。

しかし、その内容よりもずっと分りやすい解説がその20日付
朝日新聞に出ていました。緒方貞子・国際協力機構理事長と、
シャシ・タルール国連広報局長のインタビュー記事です。
私が読みとったポイントは、、、

緒方さん:
「(日本は財政面の)貢献のわりには政策論や国際的な共通利益の問題での主導力がない。自分の利害だけではなく、自分の利害を全体の中で位置づけ、全体の利害を強化する政策を示していくのが国連外交です。日本は安保理を通じて世界平和と加盟国全体の利益をどう調整し、拡大するか、指針を示していく必要があるでしょう」

タルールさん:
(日本の安保理常任理事国入り要求に関連して)「(日本は)『人間の安全保障』を提唱してアフガニスタン復興支援でも先頭に立つなど、日本が国連で果たした役割は大きい。テロ
や紛争の温床となる貧困を根絶するためにも、開発と安全保障とを結びつける必要があります」
「開発援助で、日本はどの国よりも貢献してきました。しかし、援助の削減が続き、国内総生産との比率も他の多くの国を下回っています。国連にとって、日本は多くの点でお手本を
示してきた国家です。それだけに、こうした傾向には歯止めをかけて欲しいのです」

お二人のコメントは微妙にニュアンスがずれており、我々も十分考え、議論しなければならないと心を引き締めているところです。

2005/03/20

国家公務員/国際公務員と「私」

UNフォーラムの皆さんへ

フォーラム幹事でコロンビア大学SIPA/MIAにおります中村秀規です。

本フォーラムは、国連について「知ること」、「議論/意見交換すること」、フォーラムとして外部に「情報発信すること」、そして参加者にとって望ましい「変化を引き起こすこと」を目的として参加者の自発的な意思で運営されており、現時点で280名ほどの参加者の方のうち3割弱が外務省の方、またやはり3割弱の方が国連など国際機関の職員の方々となっています。

本フォーラムへの参加の趣旨/条件として「個人として」発言/活動することが掲げられておりますが、実際には特に外務省職員の方々については、個人として発言したい/しようと思っても、メディアなど外部の方からは「外務省」の意見として読まれてしまうというリスクがあるために、発言を控えられるということがあるかと思います。

この問題への対処は別として、今回の投稿では類似の、しかしすこし違った角度の議論を投げかけさせていただきます。

国家公務員を職業として選ぶというとき、(民間企業でも存在する)所属する組織への守秘義務を負うという以上に、国家への背任罪に刑法上問われうるという点は、民間での職業選択とかなり異なった点の一つだと思います。

個人として信ずる価値と、自分が所属する組織の掲げる価値/方向性とが食い違うとき、所属を変えていくというのが一つの選択肢だと思いますが、その組織が[政府」であって、公務員たらんとする自分の価値と一国民/一人間たらんとする自分の価値とが「両方とも」嘘でないというとき、その葛藤はとても大きなものになると思います。

アジア経済研究所の酒井啓子さんは『イラク 戦争と占領』のあとがきで個人と国家との関係について次のように書いていらっしゃいます(少し長いですが引用します):
「ロレンスは自国政府の看板と『他国』という任地との間にあって、『他国』を捨てた。反対にフィルビーは、看板を捨てた。そこには、看板の内容を書き換える、という選択肢だってあるはずだろう。だがそれは、看板を負わされる者ひとりひとりが、自由に書き換えることのできるものではない。看板を負うことによって、負わされた人たちがどのような危険とジレンマと懊悩に曝されることになるのか、看板の内容を書く人々はどこまで理解しているだろうか。そのあまりに重い責任を、命を下す人々が充分熟知していることを、心より願うばかりである。」

立憲/法治国家の理念と現実とを受け入れた上で、刑法上の責務をも負う国家公務員であろうとした上で「悪法も法なり」と考え実践する(国家公務員/組織人としての自分を優先する)のか、「身捨つるほどの祖国はありや」との考えと実践に奉じるのか、これらはともに両極端だと思いますが、とりわけ「国」を体現していると思われる省庁(外務省、財務省、防衛庁/自衛隊)の職員の方々は、そうした行政組織の自律性と、一個人としての人間の安全保障/人間の開発/人間の尊厳とが利益相反/価値相反をもたらすとき、どのように判断し行動されるのか、とても興味があります。

資本主義をも含む官僚システム/登録システムの拡大が「一個人」に対してどのような影響を及ぼしており、そしてそれに対して一個人および一個人のネットワークがどのような反応を引き起こしうるか、という点に(も)興味を持って、私はこのフォーラムに参加しています。

国際公務員についてはこうした葛藤は生じにくいと思いますが、それでもたとえば、「国際公務員」という呼称を嫌い、「国際機関職員」でよいはずだと主張される方もいらっしゃいますので、「国連」や「国際機関」の自律性は、単に政治学的に興味深いというだけでなく、人生を生きている「私」にとっても実は重要なテーマなのだと感じています。自律性が自閉性に転じたとき、あらゆる組織はその内外の一個人(とそのネットワーク)を圧殺してゆく暴力機械に変貌すると感じます。

私は、組織や制度というものは、一個人および一個人のネットワークの自由(=開発、安全保障、尊厳)を守り実現していくために存在するもので、その逆ではないと考えています。

中村秀規

2005/03/19

第一回オフ会のご報告

UNフォーラムの皆さんへ

本フォーラムの幹事をしておりますコロンビア大学の中村秀規です。本日3月18日(金)、21名の方の参加を得て第一回のオフ会を実施しました。

今回は、来週22日(火)よりニューヨークヒルトンホテルにて行われる模擬国連全米大会に参加される方々にもご参加いただきました。総括の山本敬洋さんより模擬国連の活動と、活動を通じて見えてきた国連像についてお話いただきましたので、本フォーラムのコーディネーターをされているOCHA人間の安全保障ユニットの田瀬さんからの冒頭のご挨拶と併せて、簡単にご報告したいと思います。

いろいろと調整いただいて参加くださいました模擬国連全米団の皆様、またショートノーティスにも関わらずお集まりいただきましたその他の皆様方、どうもありがとうございました。

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(田瀬)
本フォーラムコーディネーターで、外務省からOCHA(人道問題調整部)人間の安全保障部に出向しております田瀬です。

1) 模擬国連がんばってください。外務省に12年いて、ここに来ている。国連政策課、第一委員会を担当。NYUロースクールにいたあと、人権難民課にいて、第三委員会を担当。そのあとアフリカ二課にいて、TICADを担当。UNDPとか第二委員会と担当。その後、第五委員会、国連分担率交渉を担当。熾烈だった。そして緒方貞子さんとかかわって人間の安全保障を担当。このように、模擬国連で扱うものはほとんど扱った。私は国連が好き。模擬国連には頑張ってほしい。外務省にも模擬国連の経験者が多数いる。応援しています。
2) NY国連フォーラムについて。先輩フォーラムとして、ワシントンDC開発フォーラムがある。すごく良かったのは、国益の議論とか、ODA大綱についていろいろ議論できたこと。あのフォーラムで出されたいろいろな議論が、実際の国益/ODA大綱の政策に反映された。このUNフォーラムには国連代表部職員などそっくりそのまま加入している。国連日本人職員とかJICA職員にも広く読まれている。若い人を含めて、いろんな人の議論が反映される可能性を持っている。新しい、民主的な政策決定プロセスになっていると思う。ぜひMLや勉強会などを通じて参加して欲しい。

(山本)
模擬国連全米団の総括をしている東京大学2年生の山本です。昨年1年生のときに、団員として参加して委員会に参加した。今年は総括として団の活動のコーディネートを行っている。
1) 模擬国連とは何か
国連の真似を学生がやるもの。アメリカで始まって、日本でも定着している。幾つかの大学でのサークル活動にもなっている。20カ国以上から、3000人以上が集まって、ヒルトンホテルで大会を行う。各種の国連委員会を開催する。多くのチームがアメリカからだが、ドイツ、フランス、アフリカからも集まっている。
2) 活動から見えてきた国連像
ア) 国連職員の方からブリーフィングを受けた。その際、職員の方が、自分たち(国連)の限界を理解していることが印象深かった。加盟国が動かなければ自分たちだけではなにもできないということをよく認識していると感じた。
イ)国連は巨大な組織。コーディネーションが難しいだろうと感じた。PKO局の池谷さんという方のお話を伺った。ベストプラクティス部門で働いていらっしゃる。一つの部署にいると、他の部署で何が起こっているか分からない。人やお金といった資源が有効に配分されないようなことが起きる。巨大さゆえの限界があると思った。その他に、組織自体に課せられた限界、というのもあると思った。たとえばUNEP。UNHCRとかUNDPとか、どういった機関でも環境に関わる。それに対してどこまで干渉してよいか、自分たちの思ったとおりにできるわけでない。UNEPとしてはやらなければいけないことも、うまくできないことがあるのではないか。このように巨大さと組織割がもたらす限界があるのではないかと感じた。国連全体が一つの組織としてうまく機能するようになる必要があると思った。ベストプラクティス部門はそのための良い例だと思った。
ウ)(国連像に関する感想ではないが)国連に関して学生の立場で知りうることは限界がある。タイムラグもある。調べていくと分からないことが出てくる。今回日本団はオランダを代表するので、オランダの政策について準備してきたが、語学も含めて分からないことが出てくる。これは模擬国連活動では見えない。模擬国連という活動の限界だと思った。

(コメント)
代表部にいたときに、我々は模擬国連で日本を代表するので教えて欲しいと代表部を尋ねて来た団体が3つほどあった。そのときには答えに窮したこともあったし、話せないこともあった。そういう意味で情報を得るのは難しいのではないか。オランダについても、官僚機構とか開発の関係とか、わかりにくい事情がいろいろあると思う。皆さん、そういう意味でいろいろよく勉強されていて、また苦労もあると思う。

2005/03/18

国連の英語以外の言語、ぼやき

NY国連フォーラムのみなさま、

エクアドルのユニセフでお世話になっております、宮川と申します。
皆様の討論はとてもハイレベルで、私のような小市民ゲリラ的な人間が参加してよいものかと思いましたが、個人的に田瀬さんたちにふらりと送ったメールの内容をフォーラムに出してみないかという提案を頂き、ペーペー国連職員のぼやきとして読み流していただくことにいたしました。 起承転結を考えずに書きなぐらさせていただきます。

では、まずは私の悩みから。。。
エクアドルは南アメリカの国ですので業務用語はスペイン語です。スタッフは40人ほどですが国際スタッフは4人、そのうちの2人はラ米出身者で西語が母国語という状況です。カウンターパート、政府とのやり取りもすべて西語になります。

英語とスペイン語について私が常に悩むのは、流れる会議のなかでどうやって言いたいことを端的にわかりやすく伝えるか、相手が納得するコメントをすることができるか、ということです。初対面の人、色々な文化やバックグラウンド、地位の人たちがいるととても難しいです。ラテンの文化というのは、人がしゃべっていようがおかまいなく違うことを主張したりします。また話し出すと長い長い。。。上手に話しているかというとそれは別の問題という感じですが、そんななかで発言するのは正直大変です。

さらにオフィス外の会議や政府のディスカッションに呼ばれると、私のような20歳前半にしか見えないチニータ(アジア人はラテンではすべて中国人でチニータ、中国人の女の子という意味です)の発言など、まともに聞いてくれないことがままあります。また元教師としての視点から何かを発言したりすると、こちらでは教師は「低レベル、低収入、ストライキばっかりする悪者」というレッテルを貼られているため、「なんやおまえ、教師やったんか」というような目を露骨に向けてくる人までいて苦労します。この地域はまた学歴が大きくものをいうようで、博士号でももっていたならばドクトーラと一目置かれて話も聞いてくれるのかしらと思ったりもします。。。

書くというのも難しいと日々感じます。昨年末から何本かプロポーザルを手がけ、英語ができるということで、ほかの人のプロポーザルのレビューなどもすることがよくあります。プロポーザルは短く、端的に、でも過不足なく読み手に活動内容がきちんと分かるように書かなくてはいけませんよね。本当にこれは私にとって悩みです。ほかのラテンのオフィサーのプロポーザルをレビューすると、500年前にスペインが中南米を征服したところからBackgroundが始まっていたりして、確かにおもしろいですがスペースがもったいないよとアドバイスしたりします。いかにもラテンですよね。

他のペーペー職員の悩み。。。
これは、最近聞いたJPOの仲間からの話です。正直私は考えたことがあまりなかったので、後から想像して大変さを理解しました。アジアなどのミドルインカムレベルの国(例えばタイとか、ベトナムとかでしょうか)になると、ナショナルスタッフのレベルが高いため、ナショナルスタッフの比率が高く、業務も政府とのやりとりなども、その国の母国語で行う方が手っ取り早いため、国際スタッフの頭を通り越して、分からない言語で物事が進んでしまうという状況。これはきっと切実だろうと思います。よく考えると普段の買い物なども英語が通じないところがきっとたくさんあるでしょうから、ぼったくられたりする可能性も高いでしょうし。。。ですが、例えば頑張ってラオス語を勉強したところで、任期は2-3年ですから、ちょっと分かるようになったと思ったら「サヨオナラ」みたいなことになってしまうんではないかと憶測します。 

最後に日本人の英語のレベル。。。
私は日本人の英語のレベルは一般的に高いと思っています。スペイン語で業務して気づいたことは、西語や仏語などが母国語の人たちは私たちのような苦労をしなくても伝わる英語が話せるようになりやすいということです。でもよく聞いてみると語順やストラクチャーが西語仏語のまま英語を話している人も結構いますよね。よく似た単語などは語尾や発音を変えるだけで西語が英語になったり仏語になったりします。日本語と英語ではそんなことは不可能だし、アルファベットも違います。だから私は「日本人の英語が下手とか言うのなら、日本語を話せるように、そして書けるようになってから、そういうことを言わんかい」と逆に思います。ただの開き直りでしょうか。。。? 

同僚などとの会話で言葉の話になったら「日本人は100のアルファベットと1000以上の漢字を組み合わせてあやつることができるのよ」って胸をはって言います。みんな「へぇー」とうなりますよ。。。。だめですか? 発音についても、日本人はコンプレックスを持ちやすいですが、言語学的に言って思春期ごろまでにきちんと外国語を学ばなければ発音はネイティブレベルにならないのが普通ですし(当然努力された例外の方もたくさんいらっしゃると思います)、他の国の人もアクセントはあります。アメリカ人の話すスペイン語など、ラテンの人がまねをしてからかうぐらい強いですよ。外国人が話す日本語からもアクセントは頻繁に聞かれますし。国連では英語が基本なのも理解しますし、さらに日本人は自分に厳しい民族ですが、言葉の件ではもうちょっとやさしく、ポジティブになってもいいんじゃないかなと思ったりします。 

以上です。
長文お許しください。 また、「けしからん」と思われた方、申し訳ありません。
これから国連職員を目指されるかた、何かしらお役に立てたでしょうか?
では良い週末をお過ごしください。

エクアドルより、
みやがわ

2005/03/12

政策評価について―国連開発援助枠組み(UNDAF)案に関連して

DCフォーラム、UNフォーラムの皆さんへ

コロンビア大学SIPAの中村秀規です。

紀谷さん、世銀チーフエコノミストの来訪の件など、たいへん興味深いご投稿をありがとうございます。楽しく拝読しました。

以下、紀谷さんの投稿のうち、政策評価の部分についてコメントいたします。

> 2.国連開発援助枠組み(UNDAF)案の発表
>
 ......
>
> 国別援助計画の策定プロセスのみならず署名者に相手政府が参加していること、モニタリング評価も相手政府と国連で評価委員会を作って中間評価・最終評価を行うこと、評価の指標としてMDGの指標をふんだんに使っていること(投入との因果関係はどう評価するのでしょうか?)などについて、興味深く思いました。

上記の箇所で、「投入との因果関係はどう評価するのでしょうか?」と疑問を呈していらっしゃいますが、ご指摘のとおり、政策評価、説明責任を考える上で、この「因果関係」の捉え方は、重要かつ難しいものだと思います。

投入と成果との間に明確な因果関係があるものほど評価/モニタリングもしやすく、因果関係が明らかでないものほど評価しにくいかと思います。しかし、仮に「成果」について明確に関係者間で合意できたとして、またその目標は柔軟に変更してよいと合意していたとしても、なお、具体的な投入に「見合った」成果だったのか否か、というのは判断の難しいことが多いかと思います。

一つの極端な立場は、民間企業と同様に、(キャッシュフロー/利益/売上、あるいは株価/企業価値といった)最終的な結果(事前に掲げられた成果stated goal)のみを評価対象とする、というものでしょう。

もう一つの極端な立場は、コミットした投入を、適法なプロセスを経て行ったかどうかのみを評価対象とする、というものでしょう。

これらの区別は、有権者は、公的機関に対して、請負契約によって事務を執行させているのか、あるいは役務提供(委任)契約を結んで執行させているのか、という概念上の区別にも対応できると思います。前者は、結果に責任を負っており、その方法に自由度も与えられているが、後者は、投入にのみ責任を負っていて、言われたとおりに執行していれば結果が予想通り伴わなくても責任は負わない、という区別です。

公的機関の独占/寡占による「失敗」と民間企業の競争原理に基づく「成功」という経験から、日本の公的セクターでも「投入」から「結果」重視へとシフトしてきましたし、政府の発注する公共事業などでも、政府が「投入」を事細かに指示するのではなく、欧米式に請負業者に自由度を与えて「結果」が出ればよいとする方向に入札方法も含めて変わってきていると思います。

先日ミレニアム開発レポートで公衆衛生部門を担当された方に講義後に質問した際にも、contractual approachといって、因果関係が定かでない中で、契約相手先に、さまざまの投入を試みてもらう/アイデアを競ってもらって、ある成果/目標を達成しようとする考え方が出てきている、とのお話を聞きました。

実際にはこれらのどこかの中間点に立つことになると思いますが、「投入か成果か」、あるいは「プロセスか結果か」という二項対立とは別な軸も考えてよいではないかと思っています。

それは、いわゆる参加型開発手法の中で行われているもので、関係者が共同で評価を行うというアプローチです。したがってどこでもいつでも通用する評価基準はありません。「関係者(それがどこまでの範囲かがまた政治的な問題ですが)」が納得するかどうか、が唯一の基準です。時間はかかることが多いでしょうし、結論が得られる保障もないかもしれません。

合同評価は、しかし、複雑な政策を評価しなくてはならないときに、一見遠回りで、しかし有効な方法ではないかと思います。たとえば対中国ODAの議論がDCフォーラム上で行われた際にも日中合同評価の提案が行われましたが、そうした場の設置は、関係者が自分と異なる価値観/世界観をもった人と集団の存在を前提として自分の考えを相手に伝えなければならないという点で、きわめて合理的かつ生産的なプロセスになると思います。

ちなみに、宮本常一の『忘れられた日本人』には、かつての西日本の村社会における意思決定改定が、とても時間をかけた、納得重視のものだった様子が描かれており、雑誌に載っていたアフガニスタンの村の会合の様子の写真とイメージがだぶります。

国連や世銀が試みてきているように、なるべくさまざまの価値観を持った主体(具体的にはNGO)を意思決定や評価のプロセスに取り入れることで、現行制度の「代表性」の失敗を補完し、「幅広い関係者の納得」を基準として評価を行い、次のステップに繋げていく、という考え方です。

実際に、細かく見ていくならば、どんな「成果」、「結果」も次なる目標のための「投入」、「プロセス」ですし、どんな「投入」、「プロセス」も、それ自体として一つの「成果」、「結果」と見ることもできます(たとえば、ある商品を売り込む電話セールスを行っている営業員は、成約にいたるまでの電話の回数が1回だろうと1000回だろうと、その1回1回は、どんな顧客とのコミュニケーション/工夫を行ったかという点で、一つ一つの「結果」を積み重ねているはずです)。

UNCDF(Capital Development Fund)の方が講師になって評価/モニタリングについて講義された授業に出席したことがありますが、プログラム/プロジェクトを開始する「前」から、どのように評価するかを考えて評価プロセスを事業実施に中に取り込んでおくことの重要性と有効性を強調していたのが印象に残っています。

したがって、公的セクターの評価軸として新たに取り上げるとよいと考えるのは、「オープンネス」と「柔軟性」です。

いかに自分の今の主張と異なる価値観/世界観をもった関係者を意思決定や評価に取り入れたか、そして一度決めた「目標」にこだわりすぎずに、時時刻刻変化する自分と環境にどう応答したか、に着目することで、因果関係が不明瞭な事柄についても、有権者(プリンシパル)と(公的)執行機関(エージェント)それぞれの応分の責任を見極めつつ、生産的建設的に「評価」できるのではないかと思います。

執行機関内において、信賞必罰の人事制度があってきちんとそれが行われているかどうかもポイントだと思います。成功企業は例外なく信賞必罰の制度が機能していると人事コンサルティングでは言われていると思います。

最後に、こうした「オープンネス」と「柔軟性」を兼ね備えた組織は、紀谷さんが指摘された「学習し、さらには相互に教育する」組織として、働いて楽しい場所なのではないかと思います。


長文お読みいただきありがとうございました。

中村秀規
コロンビア大学国際関係論修士課程

International Studies Associationについて

JASIDとNYForumのみなさん、

 Rutgers大学の院生の長田です。先日ISA(International Studies Association,
http://www.isanet.org/)というアメリカの国際関係学の学会に行ってきました。
学 会に参加しがてらのアメリカ大都市訪問がぼくの趣味です。今回の会場はハワイで、南国気分を楽しみつつ参加できました。特にハワイ住民のエスニックな融合 は、(現実の展開とは逆に)アジアが平和的に融合するとこうなるのだろうか、と思いたくなるような優しい雰囲気をかもし出していました。

 この投稿の目的はハワイ紀行ではなくて、ISAのウェブサイトにあるアーカイブが無料で閲覧できるリンクのご紹介です。開発や国連、その他グローバルイシューについても議論がありますので、みなさんにも興味深い情報があるのではないか、と思いご紹介する次第です。
 こちらから(玉石混交ですが)ISAでの発表原稿が無料で閲覧できます。ページの上にあるsearchというところから検索できますので、ごらんください。ここにある多くのものが研究雑誌に載ると思われます。

     http://www.isanet.org/archive.html

  こちらは過去の会議一覧です。PDFファイルで会議のプログラムが閲覧できます。興味のある部会の開催しているパネルの報告タイトルを閲覧するといろいろ 興味深いタイトルを発見されると思われます。ぼくは会議期間中に全部目を通してみましたが、今年の世界情勢に関する、地球上に存在する知の集積を眺めてい るようで面白かったです。

     http://www.isanet.org/isaconf.html

 開発や国連の関連する諸問題は政治的視点抜きでは対処できないですから、世界の学界から集まるISAの参加者の視点も有益なのではないでしょうか?

 最後に、常々疑問に思っていたのですが、日本の開発学会(JASID)に対応するアメリカの学界というと何でしょうか?ご存知の方、お教えください。


Tatsuya Nagata
PhD Student in Global Affairs,
Center for Global Change and Governance,
Rutgers, State University of New Jersey, Newark

世銀チーフエコノミストのバングラデシュ来訪/国連開発援助枠組み(UNDAF)案の発表

DC開発フォーラム、NY国連フォーラム、バングラモデルの皆様

在バングラデシュ日本大使館の紀谷です。DC開発フォーラムでは、ワシントンでの各種行事の案内や、スリランカからの津波復興支援報告など楽しく拝読しております。NY国連フォーラムでは、明10日に津波被害への国連支援の勉強会が開催されるのですね。報告をお待ちしております。

バングラデシュのダッカでは、本9日、世銀・国連関係で面白い行事がありましたので、複数MLへの投稿となって恐縮ですが、報告させていただきます。

1.世銀チーフエコノミストの当地来訪

9日の朝8時過ぎからダッカのショナルガオンホテルで、当地来訪中の世銀チーフエコノミスト兼上級副総裁(Mr. Francois Bourguignon)を囲んでの当地ドナー朝食会が開催されました。世銀の政策に強い影響を与える人物ということで、主要国大使、ドナー常駐代表をはじめ多数の出席がありました。日本からは、堀口大使、天田JBIC首席と私が出席しました。

同氏の冒頭スピーチでは、2005年が「開発の年」ということで、3月のパリ援助効果向上フォーラム、英国のアフリカ委員会報告書発表、3月末の国連事務総長報告、4月の世銀IMF春会合、9月のMDG+5国連総会、そして12月の香港WTO閣僚会合などの日程を説明しました。そして、追加的資金は必要だが、国レベルで追加的資金を効果的に活用するための「実施」が課題であることを強調していました。

バングラデシュについては、今回が初めての来訪ということで踏み込んだ分析はありませんでしたが、ガバナンスについて大きな問題を抱えながらも、経済成長面ではマクロ経済運営は良好で5%以上を達成しており、また社会開発面でも国民所得が低い割には指標が良いという「パラドックス」があると幾度も述べていました。

質疑応答で当方より、「MDG、PRSP、調和化と国際開発アジェンダが次々打ち出されてきたが、今や個別の途上国現地での実施、具体的には成長の源泉、民間活用、それを可能とする政治的指導力等が必要な段階に来ている。最新の経済学的見地から、このような現段階での効果的な処方箋についての洞察・示唆は何か」と尋ねました。

それに対する回答は、「援助マネジメントは最近大幅な変貌を遂げ、国によりPRSPへの習熟度や主体性(オーナーシップ)の度合は様々なので、現時点では、成功例を相互に学習するプロセスこそ最も大事である。PRSPの成功・失敗を判断するには早すぎる。ただし、MDG、PRSPなどで掲げられた様々な目標を整合的なものとする枠組みの構築は必要である。政治的指導力の問題は、透明性の確保を通じて改善するだろう。」といったものでした。

また、ガバナンスの改善について、出席者からは、ドナーがどのように協力すれば成果を出せるのか、選挙が近づいている中で改革の推進は困難ではないかといった問題が提起され、随分議論が行われました。

なるほどと思ったのは、出席者から、「世銀はバングラデシュの各種社会指標がアフリカや南アジアの諸国と比べて良いという点を強調しているが、実際によく見ると国内の貧困層へのしわ寄せや教育の質の問題などがあり、状況はかなり深刻である。バングラデシュを高く評価してしまうと、現状に満足してしまい、改善への意欲・野心がなくなってしまう。」との指摘があったことでした。問題ばかりを指摘すると、反発して耳を傾けてくれなくなってしまう一方で、良いところを褒めすぎると、改善への意欲がそがれるということで、「客観的」な各種指標を「主観的」にどのように評価するかという「心もち(?)」の重要性を改めて感じました。

1990年にナイジェリアで在勤していた時、当時の世銀チーフエコノミストのローレンス・サマーズ氏(後に米財務長官・ハーバード大学学長)が来て、目から鱗が落ちるような講演を聴いて大変感銘を受けました。大論争を起こしたスティグリッツ氏、堅実だったニック・スターン氏なども迫力がありましたが、今回ブルギニョン氏を囲んでのガバナンスを巡る議論を聞いて、「これは経済学の大御所でもなかなか一刀両断に整理できない難しい問題なんだなあ」
と改めて感じた次第です。

ワシントンDCの皆さんは、ブルギニョン氏の講演を聞かれたことがありますでしょうか。どのように評価されていますでしょうか。個人的な気持ちとしては、いつか日本人もこのようなポストで活躍していただきたいと思っております。(コンプレックスでしょうか・・・)


2.国連開発援助枠組み(UNDAF)案の発表

引き続き、午前9時から同じホテルで開かれていた2006-2010国連開発援助枠組み(United Nations Development Assistance Framework, UNDAF)案を議論する戦略セミナーに移動しました。(スウェーデンやADBなども同じく「横滑り」していました。)UNDAFは、国連関係機関が共同して作る国別援助計画で、冒頭にバングラ政府とUNDP、FAO、ILO、IOM、UNICEF、UNESCO、UNFPA、UNHCR、WFP、WHOバの10機関の署名欄があります。

セミナーでは、バングラ政府財務計画省高官と国連常駐調整官が共同議長を務め、国連機関代表や主要職員が勢揃いしての大変密度の濃い会合でした。バングラデシュの関係省庁や各種NGO、職業団体からも出席があり、先のドナーばかりの会合と違って、バングラデシュ人からの意見・質問が9割を占めていました。実務的かつ建設的な意見が多く、スウェーデンの代表も、「さっきの2階の朝食会から1階のセミナーにきたら、地に足のついた議論になった」と発言して笑いをとっていました。

バングラデシュで国連がUNDAFを作成するのは今回が初めてとのことで、数ヶ月前から頻繁に国連各機関の代表が会議を持ち、力を入れて作成していました。中身は、(1)民主的ガバナンスと人権、(2)保健・栄養・持続可能な人口、(3)教育と貧困層に配慮した成長、(4)社会的保護と災害リスク軽減、(5)ジェンダーの衡平性と女性の立場強化、(6)エイズの予防と患者の保護の6本柱でした。

UNDAFの発表と意見交換に続き、複数年度の計画を持つUNDP、UNICEF、UNFPA、WFPからの個別の発表もありました。同じ問題(例えばエイズや民主的ガバナンス)に対し、複数の国連機関がそれぞれの立場から強みを生かしながらアプローチしている様子がわかり、大変勉強になりました。終わった後の食事でWFPの人に「短時間で全体像がわかって大変勉強になった」と言ったら、「それは私たちも全く同じよ!」と笑いながら言っていました。確かに、国連の中でも他の機関の活動に関わることは少なく、縦割り構造なのでしょう。

国別援助計画の策定プロセスのみならず署名者に相手政府が参加していること、モニタリング評価も相手政府と国連で評価委員会を作って中間評価・最終評価を行うこと、評価の指標としてMDGの指標をふんだんに使っていること(投入との因果関係はどう評価するのでしょうか?)などについて、興味深く思いました。

当方からは、UNDAFのモニタリング評価をバングラデシュ政府自身によるPRSPの評価と連携して透明性を持って行うべきではないか、UNICEFについて緊急的支援と持続可能な制度構築のバランスに配慮すべきではないか、WFPについて恒常的な食糧不足は津波等と違って関心を引き難いので、他の開発パートナーと連携してExit Strategyを考えるべきではないか等の指摘を行いました。説明を聞き意見を述べる中で、国連第二位拠出国の日本として、首都・本部レベルのみならず、国連の途上国現地での戦略立案や活動について、きちんとモニターし建設的に関与していくことは大変重要なのではないかと改めて実感しました。

後半セッションの共同議長を務めた財務計画省のPRSP責任者からは、良い計画だか、実施された分だけが意味を持つと最後に指摘していました。実施段階で様々な障害にぶつかる当国の現状を踏まえた重みのある発言と感じました。

最後に、国連常駐調整官は、国連のことをよく知らないまま批判をする人は多いが、現場の活動を実際に見ればいかに有意義かを理解してもらえると思う、特に幾つかの事業は安価で大きな効果を上げている、とのことばで締めくくっていました。

先般のスリランカ等での津波災害対応でもそうでしたが、専門性や迅速性、地方での実施能力など、国連には様々な強みがあると思います。日本としても、「国連を通すと顔が見えなくなる」といった一般論でマルチ援助に疑問を呈するのではなく、途上国現地で国連を効果的に活用し連携して、少しでも大きな成果を目指していくことが大事ではないでしょうか。

UNDAFと関連パワーポイント資料は、数日内にバングラデシュ現地ドナー調整グループのウェブサイトに掲載される由です。もしご関心がありましたらご覧ください。
http://www.lcgbangladesh.org/

NYやジュネーブの国連本部の皆様、あるいは当地を含め各フィールドの皆様は、UNDAFプロセスについてどのように評価されていますでしょうか。また、日本としてどのように関わっていくべきでしょうか。ご意見を伺えれば幸いです。


3.おわりに

同日夕刻、東京都武蔵野市「国際協流感じ隊」のシャプラニール連携スタディツアーで当地来訪中の大学生5名(と引率のシャプラ中森さん)に対して、日本の対バングラデシュODA、そして現地ODAタスクフォース(バングラデシュ・モデル)について説明し、逆に当地来訪の動機や来訪しての感想などを伺いました。

ストリートチルドレンや国際保健、開発経済、開発教育など動機は様々で、感想も「乞食にお金をあげるべきか、あげないべきか悩んだ」「日本人にとっての幸せをバングラデシュ人に当てはめられるのか」「ストリートチルドレンに実際に会ってみると、あまりにも自分と違いすぎて共感を持てず悩んだ」など各人違ったものでした。

世銀との切磋琢磨、国連との連携が大事といっても、まずは一人一人の日本人が、自らと開発問題のかかわり、そして日本と開発問題のかかわりについて悩み、考えるところから始まるのではないかと思います。そして、日本人の気持ちと、相手政府・国民そして他ドナーなど多くの関係者のベクトルをいかに合わせていけるかが、開発問題への解決に向けての鍵になると感じております。


かなり長い投稿になってしまいましたが、終わりまで読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。

ドナー調整会合の英語

田瀬さん、NY国連フォーラムの皆さまへ。バングラデシュの紀谷より

楽しいエッセイありがとうございました。ちょっと変わった話題ということで、こちら途上国の現地からも報告させていただきます。

私は大学生時代に模擬国連をしていたこともあり、国連の仕事がしたいと思って外務省に入ったのですが、ニューヨークやジュネーブなどの国際会議に出る機会はほとんどありませんでした。しかし、バングラデシュに来てみると、日本のバイの援助に加えて、いわゆる「ドナー調整会合」が最低月1回は開催され、世銀・ADB・IMFや国連諸機関、そして米・カナダ・オーストラリアや欧州諸国などが同じテーブルについて議論する場に参加することとなりました。こ
こに着任して、もう1年半以上になります。

実際にやりとりをしていて、必要な英語力については次のように感じました。
(自分がどの程度できているかは棚にあげさせていただきます・・・)

(1)簡潔ながらも丁寧に、言いたいことを過不足なく表現する力
特に会議の席上では、議論の流れに影響を与えたり、考慮すべき要素を提示したりする発言は尊重されます。発音や流暢さはともかくとして、内容のあることを、趣旨が十分わかるように、論理的に表現する英語力が求められると思います。

(2)相手の立場に立って、表現する力
コミュニケーションは相手があってのものですので、相手に理解され、影響を与えるようにするためには、自分の発言が相手にどのように受け止められるかを考えながら、タイミングと表現を選ぶことが大事だと思います。他の人たちの発言に言及しながら、重要なところは強く主張しつつ、そうでないところは控えめに振舞うなど、いわゆる思いやりを言葉で示すことが、(中身に加えて)かなり大事な要素と思います。

(3)事前準備と事後のフォローアップ
英語プロパーの問題ではないかもしれませんが、事前に準備作業をしてきた上で発言すること、また自らの発言を後でフォローアップすることなど、汗をかくことの積み重ねが、結局は英語力に勝る重要性を持つのではないかと感じています。言葉が十分でない場合は、席上資料で補足したり、事後にメールで流したりといった気配りや作業で、英語力は大いに補えるように思います。

はからずも、途上国の現地で先進国・ドナー同士の「マルチ外交」を実感しているわけですが、ある程度の英語力は大事なものの、結局は「人となり」といいますか、その人がどれだけ信頼できるか、ということで仕事が進んでいるように思います。

以上、田瀬さんの投稿に対して感想を述べさせていただきました。

国連の英語

NY国連フォーラムのみなさまへ。田瀬より。

語学力について私が投稿する資格があるかわかりませんが、日曜日なのでちょっと変わった話題を。

国連や国際機関やNGOで働くのに必要な英語(ほかの言葉でもいいです)の力というのはどんなものだと思われますか? 映画が全部解るくらいの聞き取り能力? ネイティブ並のスピードで喋る力? 100ページのペーパーでも2時間くらいで読んじゃう力? それともさくっとレポートを作成できる作文能力でしょうか?

もちろんどれも必要ではあると思うのですが、私がいつも感じているのは「話し手・書き手の意図を正確に理解しさらにその先を想像する力、それと、自分の立場について徹底的に正確に言い分け・書き分けられる能力」の必要性、言い換えれば実質的内容(サブスタンス)の力です。その意味では、外国語・英語の能力というより、むしろ母国語の能力とそもそも考える力がいちばん必要なのではないかと思います。

それからもう一つは、「難しいことや複雑なことを相手に解る表現で(つまり簡単に)伝える能力」ということでしょうか。正確な言葉の使い分けや概念整理ができても、相手に理解できなければ意味がありません。人間の脳みそはラジオみたいなもので、相手と波長が合わなければ情報は伝わりませんから、相手が受信できない周波数でいくら電波を飛ばしてもムダなわけです。私も難しいことを簡単に教えてくれる人にはいつも感服します。

国連で日本の代表のスピーチや発言はみんな比較的よく聴いてくれるというのが私の印象です。日本人は外交官や他省庁の官僚を含め、英語がネイティブ並にすらすら話せるという人は残念ながらほとんどいません。にもかかわらず他国が日本の発言にある程度耳を傾けてくれるのは、発言にある程度実質的内容があり、表現についても(必ずしもエレガントでなくとも)よく考えられているからだと思います。逆に、一部諸国の代表はやたら発言時間だけは長いですが、実質的内容に乏しい場合もあり、必ずしも評価されているとは思えません。ましてネイティブでも早口で何言ってるか判らないような人はゼンゼン×だと思います。

国際機関職員も同じです。「聴かせる人・読ませる人」の発言や文章には、短くてもなるほどと思わせる内容があり、内容があれば表現が多少拙くともみんな聴いてくれます。また、誰かの発言の真意と意図を正確に把握しこれにぴったり対応するような仕事をすれば、その人は自分を理解してくれる人を見出したと感じて評価は高まります。緒方貞子さんやブラヒミ次長、リザ前官房長など偉大な人たちを見ているとこうした能力が飛び抜けて高いことが感じられ、自分の力のなさを痛感します。逆に国連には、こういう力が不足している人も実はたくさんいます。

こうした実質的な力が十分にある上で、より正確な語彙を知っていたり発音がよかったりすれば鬼に金棒なのだと思います。私は「ツールとしての英語」の訓練として通訳の修業をやりましたが、通訳の仕事というのはまさに、Aさんの意図を正確に理解してそれをBさんに解るように正確に伝える、同時に英語や日本語そのものの質も要求される、かつ自分は黒子に徹しなければならないという点で、ある意味真の語学力が要求されるわけです。かといって、同時通訳が完璧にできる人が必ずしも国際機関で働ける力があるわけではありませんけれども。

コミュニケーションは難しいといつも思います。語学力を含めて、総合的なコミュニケーション能力を身に付け高めるためには、相当な努力と時間が必要なのでしょう。特に将来国際機関で働きたいと思っている学生の方々には、英語が母国語のようにできなくても少なくとも諦める必要はないし、逆に完全にバイリンガルでもそれが仕事ができることとはほとんど無関係であることを強調したいと思います。

それにしても国連ではいろんな英語が話されています。私自身はインパキ系の英語が苦手で(インド・パキスタン等南西アジア諸国の人たち)未だに聞き取れません。オーストラリア、ニュージーランドも鬼門です(イーの発音が全部アイになったりする)。アフリカの英語も独特の訛りがあり、かつ論理展開も違うので難しいです(それに長時間聞いていると写るンです)。米国人が喋るとホッとするのは、かなりアメリカに毒されている証拠でしょうか。まだまだ修業が足りませんね。

ではまた。


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