2005/03/20

国家公務員/国際公務員と「私」

UNフォーラムの皆さんへ

フォーラム幹事でコロンビア大学SIPA/MIAにおります中村秀規です。

本フォーラムは、国連について「知ること」、「議論/意見交換すること」、フォーラムとして外部に「情報発信すること」、そして参加者にとって望ましい「変化を引き起こすこと」を目的として参加者の自発的な意思で運営されており、現時点で280名ほどの参加者の方のうち3割弱が外務省の方、またやはり3割弱の方が国連など国際機関の職員の方々となっています。

本フォーラムへの参加の趣旨/条件として「個人として」発言/活動することが掲げられておりますが、実際には特に外務省職員の方々については、個人として発言したい/しようと思っても、メディアなど外部の方からは「外務省」の意見として読まれてしまうというリスクがあるために、発言を控えられるということがあるかと思います。

この問題への対処は別として、今回の投稿では類似の、しかしすこし違った角度の議論を投げかけさせていただきます。

国家公務員を職業として選ぶというとき、(民間企業でも存在する)所属する組織への守秘義務を負うという以上に、国家への背任罪に刑法上問われうるという点は、民間での職業選択とかなり異なった点の一つだと思います。

個人として信ずる価値と、自分が所属する組織の掲げる価値/方向性とが食い違うとき、所属を変えていくというのが一つの選択肢だと思いますが、その組織が[政府」であって、公務員たらんとする自分の価値と一国民/一人間たらんとする自分の価値とが「両方とも」嘘でないというとき、その葛藤はとても大きなものになると思います。

アジア経済研究所の酒井啓子さんは『イラク 戦争と占領』のあとがきで個人と国家との関係について次のように書いていらっしゃいます(少し長いですが引用します):
「ロレンスは自国政府の看板と『他国』という任地との間にあって、『他国』を捨てた。反対にフィルビーは、看板を捨てた。そこには、看板の内容を書き換える、という選択肢だってあるはずだろう。だがそれは、看板を負わされる者ひとりひとりが、自由に書き換えることのできるものではない。看板を負うことによって、負わされた人たちがどのような危険とジレンマと懊悩に曝されることになるのか、看板の内容を書く人々はどこまで理解しているだろうか。そのあまりに重い責任を、命を下す人々が充分熟知していることを、心より願うばかりである。」

立憲/法治国家の理念と現実とを受け入れた上で、刑法上の責務をも負う国家公務員であろうとした上で「悪法も法なり」と考え実践する(国家公務員/組織人としての自分を優先する)のか、「身捨つるほどの祖国はありや」との考えと実践に奉じるのか、これらはともに両極端だと思いますが、とりわけ「国」を体現していると思われる省庁(外務省、財務省、防衛庁/自衛隊)の職員の方々は、そうした行政組織の自律性と、一個人としての人間の安全保障/人間の開発/人間の尊厳とが利益相反/価値相反をもたらすとき、どのように判断し行動されるのか、とても興味があります。

資本主義をも含む官僚システム/登録システムの拡大が「一個人」に対してどのような影響を及ぼしており、そしてそれに対して一個人および一個人のネットワークがどのような反応を引き起こしうるか、という点に(も)興味を持って、私はこのフォーラムに参加しています。

国際公務員についてはこうした葛藤は生じにくいと思いますが、それでもたとえば、「国際公務員」という呼称を嫌い、「国際機関職員」でよいはずだと主張される方もいらっしゃいますので、「国連」や「国際機関」の自律性は、単に政治学的に興味深いというだけでなく、人生を生きている「私」にとっても実は重要なテーマなのだと感じています。自律性が自閉性に転じたとき、あらゆる組織はその内外の一個人(とそのネットワーク)を圧殺してゆく暴力機械に変貌すると感じます。

私は、組織や制度というものは、一個人および一個人のネットワークの自由(=開発、安全保障、尊厳)を守り実現していくために存在するもので、その逆ではないと考えています。

中村秀規

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