2005/04/01

日本の役割、硬直した官僚制、日本の公と私いろいろ

こんにちは、みなさん。

 ラトガーズ大学の院生の長田です。非常に多岐にわたって盛り上がっている議論に参加(乱入?)させていただきたいと思います。

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 日本の「国際貢献」や地位向上への動きについてですが、ぼくは、過去の失敗にすっかり怖気づいてしまった生徒がおずおずと昔のけんか相手が作ったグループで何か役目をもらおうとしているようなもの、と思っています。

 西田さんの「学級委員」という比ゆはとても興味深いものですね。学級委員にしてもらおうという考えで日本が国連や国際社会に関わるというあり方が、日本の「指示待ち」思考をよく表現しているように思います。国際社会への関与というものが、日本から見てここがおかしい、ここはこうあるのが正しい姿だ、といえない理由は、日本の敗戦だと思いますが単純すぎるでしょうか。

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 日本が国際社会での地位を高めるためには日本にあって他になかなかないものを国際社会に持ち出せることが重要だと思います。アメリカの場合、余りうまくいっていないですが、民主主義の輸出と軍事力の投入ですよね。他の国も日本にあって外国になかなかなく、外国に持ち出せるかもしれないものといえば、急速に達成できた経済成長のモデルと治安、政治的安定、非西洋であること、くらいだと思います。日本での成功を相手のニーズや特性に合った形で持ち出せるのであれば、日本の関与にもっと関心を持つ国も増えるのでしょうが、残念ながら今の日本は「わが国のような成功を収めるにはあなたの国にはこれが足りない」とある意味恥ずかしげもなく言い切れるだけの自信も準備もないのではないでしょうか?

 欧米にあって日本にないもので国際社会に役立つものを前の世代が作ってくれなかったので、「国際」関連で何かしたい日本人(学生)が欧米に出て行ってまねをしている、というのが現状ですが、そのままではただの欧米の後追いなので、いずれ手塚治虫や宮崎駿、はたまたトヨタやソニー、松下のように国際貢献、開発、国際政治学でも「日本ブランド」を作れるようになりたいものだと思います。

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 日本の国際的地位が必要以上に低い、という意識が(なぜか)私たちにはありますが、日本の対外的姿勢と国際的地位には関係があると思います。一つは独自の状況判断がない。もう一つはあまりに予測可能なことです。人間関係でもよく気がついて、何をすべきか自信を持って判断と決断ができて、てきぱきと物事をしてくれる人は評価されます。また、こちらの言うことを聞くに決まっていると思える人間よりも、下手をすると(またはきちんとお願いしないと)こちらが困ることをするかもしれない、やって欲しいことをしてくれないかもしれない人間の方が影響力は大きいです。逆に自分から何かをするわけでもなくて、いわれればそれなりにやるが、いなくても困らない人はどうでもいいわけです。「手がかからないいい子」というべきでしょうか。
 日本の認識と政策が欧米の後追いであり限り(常任理事国にしてもらう、という姿勢も<国際連合はアメリカなどが「作った」もので、国際社会のリーダーは国際機関を国際社会のニーズを考えて「作る」、「作っていく」ものではないでしょうか>)、関係者は日本の話を聞きに来る必要はないです。「日本から見て今の世界にはこれが足りない」といえる知的資源がもっと必要でしょう。
 日本の対外関係もアメリカの言うことを聞くに決まっている、と外国が思えば、アメリカと話せばいいですし、国際貢献といえばやりたがるに決まっている、と分かれば外国も国際機関も日本にお願いしに行く必要はないでしょう。日本の利害がアメリカと一致しているに決まっているのであればアメリカも日本を重視する必要はないです。ぼやぼやしていると日本の金は他に行ってしまう、説得できないと日本は既存の国際機関ではなく、オルタナティブな方法でやってしまう(一国主義、NGO,あるいは日本が国際機関を別に「作って」しまう)、ちゃんと説得しないと協力してくれない、という緊張感がもっと必要ではないでしょうか。

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 これと関連して、日本の官僚機構が政策的な柔軟性に乏しいこと、自己主張が弱いことが日本の存在感を低下させている、という問題ですが、もともと日本側が国際交渉に役人ばかり送り込みすぎている、ということはないでしょうか。また、日本の政策決定が官僚機構が自分たちのコンセンサスで作った政策に政治家の裁可を得る、という形式を取ることで、官僚機構に決定と政策の策定(政治と政策)の混同を招いているのではないか、とも思われます。
 もともと官僚の役割は、政策知識を提供して政治家の決定作成を「助け」、出てきた決定を執行するものと思います。たとえて言うと、官僚機構は政治家というツアー旅行幹事を助ける旅行会社やガイドではないでしょうか?ツアー団体が関心があって、また旅行可能な目的地を一通り提示し、選択肢に関わる費用や内容、経路等を教え、幹事に決定をゆだねる、細かい内容は旅行者の意向に沿うように自分で処理する、というのが仕事です。別なたとえをすると、理想は多彩なメニューを提示できて、どんな注文が来ても対応できる有能なシェフではないかと思います。
 しかし日本の政治の決定能力が弱いと官僚側としては決定の領域にも踏み込まざるを得ないということでしょうか。優柔不断だったり怠け者だったり、時間がなかったりでいつも「今日のおすすめメニュー」ばかり選ぶ客に料理を作り続けるシェフでしょうか。(明治維新で侍から官僚へと転進した統治エリートの系譜か、明治憲法体制下の官僚機構の伝統か、はたまた戦争責任で決定エリートが一掃されたせいか、いろいろを想像力をかき立てられます。)

 柔軟性にかける日本の対外政策プロセスの問題への対応を考えてみました。
 1.政党や政治家の政策決定機能を高め、国際交渉にとにかくもっと出させる
    言いにくいことや官庁のマジョリティと違うことを言ってもらう。

 2.政治的任用官吏を増やす。
    アメリカのように、政治性のあるポジションについては政権が任命
   する官僚を増やす。
 2の亜種として、
   官僚キャリアの天井を低くして、官庁で一定以上のポストを得るために
  公務員が退職して政権によって任用せねばならない制度と慣行にしてしまう。
  こうすると政党の政策エキスパートとしてリスクを取って官僚機構の上部に
  上るか、官庁内部で安定しているが低いポストに留まるかを官僚は選ぶこと
  になります。国際交渉には政治的任用官吏を出して人と政策の柔軟性を追求
  するわけです。一旦政治任用を受けた人はもちろん公務員には戻れないので、
  政権が倒れた後は政界か民間かで生きていってもらうわけですね。

 3.官僚機構に政策多元主義を明確にする。
   官庁内部での政策論議の公表を義務付け、複数意見を公表するプロセス
  をつくる。支持者、発案者はだれであるかを示して常に複数の政策オプション
  を政治家に提示することをルール化する。

 とりあえず上のような大きな変化なしに個人レベルでできることとして、日本の政策決定に影響力があると国外に思わせることができる政治家、エキスパート、ジャーナリストが、マジョリティとは違うが説得力のある意見を国際的に発信できるようになることがあります。国連などいらない、日米協調は日本の国益にならない、と言う意見が日本の政策に反映されるかもしれない、という認識を国外に持たせることのできるオピニオンリーダーの存在です。アメリカがこういうところがあるので得をしている面があるように思います。

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 上記とは関係ないのですが、「個人」と「私人」の区別と日本の歴史について。とりあえず、ここで議論されたのは日本の集団主義の問題ですよね?「集団」や「組織」に対するのは「個人」であり、(「衆」や「群」に対して「個」)、「私」に対するものが「公」というわけで、役所や政府がやるべき議論や仕事をしていない場合にはそれにいるのは「公」ではなく「保身に走る私人の群れ」ではないでしょうか?そういう「群れ」が「公」と等値にされてしまうのは危険に思いました。これは個人主義と市場主義の結合の知的産物だと思います。現在世代の多数者の意思が「公」とされてしまう市場型民主主義の限界は持続可能な開発やエコロジーの概念によって将来乗り越えられるものではないかと思います。

 日本の公的意識の欠落した、減点思考の集団主義がどのような歴史的経緯の産物かはよく知りませんし、日本に明確な個人主義があったとは思いませんが、無知を恐れず言えば、近代以前にも、むしろ、日本では近代以前により多く強烈な個人を見出すように思われますが、どうでしょうか?思想的には「葉隠」の大高慢と大慈悲はどうでしょうか?「葉隠」といえば「武士道とは死ぬことと見つけたり」というフレーズが有名ですが、その中で山本常朝は「大高慢」と称して、武士がお家のためにあえて衆意に逆らって義挙をなす不遜を称揚しています。またそのような振る舞いをあえてする武士の行動を導く原理は神仏への尊崇に啓発された「大慈悲」です。

 ついでにいうと、葉隠がしばしば誤解される上のフレーズ(「狂い死に」と略するのでますます誤解される)は、「生か死か、どちらがより義であるか」という道徳的ジレンマに立たされた時に、「生」よりは「死」につながる選択をせよ、そうすれば生き延びる選択が間違いであれば「卑怯」であるが、死ぬ選択が間違いであれば「気狂い」であっても大損であるから「卑怯」ではない、という思考法です。「減点されないように」ではなく「減点されてしまえ!」という究極のアンチ減点主義です。

 他にも戦国時代や幕末維新の方が戦後よりも圧倒的に強い自我と公的意識を持った個人を多く輩出しているように思います。思想の違いで殺しあった幕末の志士たちは強烈に「公」を追及する個人たちであったと思います。(国際会議に日本刀など危険物を持ち込むことを示唆しているわけではありません。)

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 ですから、仮説として、現代日本の私人たちの集団主義は近代以前とは断絶しているということです。では何がその起源かということですが、(日本の持続可能な農業の成立が集団主義の成立に一役買っているかもしれませんが)やはり戦後にあるのではないかと思います。
 戦争中の軍人の大言壮語と下克上、滅私奉公、いけいけどんどんといった風潮が敗戦によって粉砕され、その上に市場志向のアメリカの影響、マルクス主義の反ブルジョワ・反国家主義(マルクス主義者は現実の社会主義体制が行き詰まると「批判的」スタンスしかとりようがなくなった)が重なった結果ではないか、ということです。
 強烈な自我を持った個人も、強烈な正義や大義に突き動かされる、昔の言い方で言えば「国士」や「志士」はいつのまにかいなくなって、集団に依存する私人(形ばかりの「公」)とアトム化された個人(孤人?)の砂のような集合体ばかりが目立つ現代日本ですが、戦争の経験に懲りて、一つの極端からもう一つの極端へと行ってしまった観があります。先祖がえりして「死に狂い」しても解決にならないので、うまくバランスを取る必要があると思います。

 この日本の「公」と「私」の問題もまた日本が国際社会に何を持ち出せるか、という大きな課題の一つの例題ではないでしょうか。この日本のローカルな問題状況が西洋型の個人主義と市場主義を取り入れた結果であるなら、日本の歴史と伝統からの照射は西欧起源のこれらの思想の限界を乗り越えるグローバルな示唆を持つかもしれません。

 きらくな大学院生が適当に書きなぐったものですが、これだけ書いてだれにも見せないのももったいないと思いますから投稿させていただきます。


 最後まで読んでくださった方、おつかれさまでした。ありがとうございました。

       長田達也
Tatsuya Nagata
PhD Student in Global Affairs,
Center for Global Change and Governance,
Rutgers, State University of New Jersey, Newark

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