2005/06/02

開発に関する議論の行われ方/先進国と途上国との関係

NYフォーラム、DCフォーラムの皆さんへ

ニューヨークにおります中村秀規です。

久木田さん、スティグリッツ講演のご報告をありがとうございます。

「成長に焦点を絞るべきかそれとも貧困か?」に関しては、さらに制度変更の順序とスピードを考慮して変更を行うこと、「援助に焦点を絞る危険性は?」に関しては、貿易のみならず効果をもたらす援助について更なる検討・実証・実行を行うことが必要という議論だと理解しています。

ただ、介入するかしないか、するならどんな介入を行うか、といった議論はいずれも貧困解消という目標について合意しているひとたちにおいて成り立つ議論であって、こうした議論の前に、貧困をどう理解し、貧困解消という目標についてどの程度当事者性をもってコミットしているかについて、まず世界の中には相当のばらつきがあるように感じています。目標についての議論と、その目的を達成するための手段についての議論は、できるだけ分けて議論したほうが良いと思いますが、現実には目標、もっと言ってしまえば一個人としてのコミットメントや価値観の議論は徹底してなされずに、手段の議論にそれが投影されているだけのように感じることがあります。それがひいては(自分のことではなく)未来/世界/自分の周囲の予測の巧拙・適否・確からしさや、議論の整合性についての議論「のみ」という事態を生むように感じます。それらが無意味なわけではないですし、あるいは共有可能性・検証可能性を高め、コミュニケーションを促進する客観性を有するという点では有意義なことであると思いますが、個人としての「目標」、「価値観」が存在しない「観察者」の議論は、(社会現象に関する限り)有意味とは思えません。むしろ、ぎりぎりまで「目標」や「価値観」についての分析を深め、どこまでが論理や言語によって議論可能なのか、どこから先は、(自分にとって)「大事/大事でない」、「好き/嫌い」、「したい/したくない」という次元のことなのか、ということを明らかにしておくことで、「目標」や「価値観」の上の、政策・介入といったレベルでの議論も意味を持つように思います。

加えて、DCフォーラムで行われてきている「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンに関する議論に関連して、2点申し上げます。

1.「開発」援助は倍増しなくても、「人間の安全保障」援助はさらに増額・増強していってよいのではないか。武力紛争の解決によってしか実現しない安全保障とは別に、紛争が存在していなくても生存が脅かされている安全保障問題について着目されてきていると思います。後者は、開発とのつながりで言えば、農業、電力(エネルギー)、保健・教育、輸送・通信、そして安全な水へのアクセスといった分野の機能不全状態によっても発生していることで、伝統的な開発の分野と何も変わりませんが、持続可能農業、保健、水のような分野は安全保障に直結しており、かつどのように介入すればどれだけコストがかかりどうしたインパクトが見込めるか、「介入の失敗」が起きないかについての知見も蓄積しつつある状況で、これらへの投資は意味があることではないかと考えます。紛争や腐敗などより介入を困難にする条件、とりわけ紛争そのものは別途の議論になるとは思いますが、切り分けられるものを一緒にしないことは重要と考えます。

日本のODAということにひきつければ、これは海外向け援助の中での割り当ての変更を意味しますし、全体額について言えば、日本の公共投資全体の割り当ての変更を意味します。

2.援助に類することが行われる際に、する側・される側それぞれに求められるのは応分の緊張・負担・責任ではないかと思います。税を課すときに、公平に、かつ負担の能力に応じて行う、といった議論の際の公平性の感覚に近いと思います。平たく言って、金銭的にではないにしても、全体的な負担感/緊張感において自分のそれと相手のそれとをバランスさせようという感覚だと思います。純粋に自発的でない、だからこそ「負担」と感覚されることについて、制度的・政策的に義務化するにおいて、最低限そのバランスがなければその契約にコミットしない、と言えるかと思います。ひとには物質的・社会的に支えられている「自由度」があって、その自由度をいかにどの程度使うかに関して、市場や政府やその他の社会ネットワークを通じて繋がって「しまって」いる個人どうしは、そのコミットメントを試されているし、試しあっている(コミットメントを強制しあっている)とも言えます。私の違和感は、国内についてであれ海外についてであれ、自分以外の人についての「負担感・緊張感」のアセスメントが適切な現実像にもとづいて行われているとは思えないこと、および、先進国内における負担感・緊張感があたかも誰かから強制されているもので自分がその制度の再生産の一端を担っているという認識が皆無に近いこと、にあります。

分配(援助)の議論をする前に議論すべきこととして語られるのが(市場・交換をもっと活用せよということでなく)責任を負っている人間(たち)が責任を果たせばよい、という議論だと思います。議題は、「植民地支配」です。分配以前の、罪に対する刑/補償行為という考えです。主権国家やその他の集合的アイデンティティが担い得る/担うべき責任についても、もっと分解して見ていく必要があると思います。これは公平性・ジャスティスに関わる議論でもあって、これも一緒でないと、分配の議論を始めようとしない立場もあり得ると思います。例えば、サブサハラアフリカとヨーロッパと日本について。また日本とアジアについて。

最後に、この「罪と罰」系列の責任の議論をした後に、それでも結局「目標」や「価値観」の議論に戻るように思われます。第三者による介入や分配を支えるものは最後にはジャスティスの感覚すら越えて、たんに自分はどうしたいか、どうであって欲しいか、という欲望や目的であって、それ以外ではないと感じます。

中村秀規

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